感想文

17:00「氷河に眠る友のもとへ」(NHK)

ミニャ・コンガの冬季登頂に挑んだ北海道山岳会のメンバー8名は山頂を目前に滑落。1本のロープにつかまったまま雪煙に消えます。その時たまたまロープについておらずに残ったメンバー。そして後方で高度障害を発症したメンバーの介抱に当たっていた隊長と隊員たちがそれから十数年後、仲間の遺体を弔うために再びミニャ・コンガに向かいました。そこにかつて不帰の人となったメンバーの、当時はとても小さかった娘たちを加えて。



山に魅せられたアルピニストと呼ばれる人がいる。そんなことを大学時代に一冊の本を読んだとき、初めて知りました。山際淳司の「彼らの夏、ぼくらの声」(角川文庫)という本の中に収録されている「八八四八メートルのラッシュアワー」という作品です。
そびえ立つ山の神々しさと美しさ、そしてその頂に立とうとしたときに思い知ることになる恐ろしさ。そんな二面性こそが魅力なのだろうか、とハイキングさえしたことのないインドア人間としては思ったものです。もちろんそれは部外者の浅薄な理屈付けにすぎないのは言うまでもないでしょう。有名な「なぜ山に登るのか?そこに山があるからだ」というマロリーの言葉を引くまでもなく、本当に引き込まれてしまったら理由なんていらないのですから。

夏のミニャ・コンガの風景は遠くにたたずむ万年雪をたたえた山頂の姿ともあいまって、TVの画面で見てもその美しさが伝わってくるほどです。そんな中で、登頂中に撮られた写真や残された交信の記録などからかつてのメンバーは記憶を呼び起こし、娘たちはおぼろげな記憶にゆらめく父親の姿を少しずつ捉えはじめます。なぜ危険をおかしてまで登ろうとするのか、答えはすぐにはわからないでしょう。けれどもかつて父親が目指した同じ地に立つことで、その糸口はつかめるかもしれません。
「やっぱりすごい人だったんだ」
なにげなく呟かれたその言葉に、ついなにがしかの意味を感じ取りたくなってしまいます。

標高数千メートルでは当然平地よりも空気が薄く、幻覚などの高地障害が登頂者を襲います。われわれはよく登頂を「征服」という言葉に置き換えてしまいがちですが、実際に頂に立った人はそんなことを考える余裕はなく、ただ「ああ、早く降りなきゃ」とまず思うのだという話を聞いたことがあります。もちろんそれがすべてではないでしょうが、そこには有無を言わせぬリアリティがあるように感じます。常に死が隣り合わせであり、時として生きて帰ることの方が偶然の積み重ねに過ぎないのではないかと思わせる世界で、滑落の瞬間には何が見えるのでしょう。
「穏やかな表情をしていたよ。きっと誰かが止めてくれると思ってたんじゃないかな」
そういうことを言われるとますますわかんなくなるんですけどね。

「隊長として先頭に立って隊を引っ張っていく。冷静に考えてみると、そうすべきだったんじゃないかと思うんですよ」
滑落の瞬間の雪煙を後ろから見ることになった隊長はその思いをずっと抱えていました。仕方なかったんだという声がなかったわけではありません。そんなことで悩んでも亡くなった人たちが帰ってくるわけでもないのです。けれどもどうしてもそこに拘泥してしまう。拘泥せざるをえない。そういうものなのでしょう。
滑落したメンバーの遺品を見つけ、旅はいよいよ終わりへと近づきます。かつてかなわなかった父親と娘の邂逅が、長いときを経て実現したのです。それは自分がなすべきことをなしていればこんな形にはならなかったのかもしれない__。「本当に苦しそうな顔」がそこにはありました。

平和な街でくらしていると、逃れようのない倦怠感がからみついてくるのを時として感じることがあります。そこを抜け出して、いまや夢物語のようになってしまった冒険と呼ばれる死が日常としてある世界に身を投じる。そうすることで逆説的に生きていることを実感することができるのかもしれません。
「来てよかった」
当たり前すぎるくらいのそんな感想を、久しぶりに新鮮に感じることができたと思います。