いまさらイラク戦争について

戦争反対のシュプレヒコールにはなんだかあんまり素直になれなかったのであるが、といっても戦争に反対したい気持ちであったのには違いない。たとえばアルジャジーラで死体の写真を見てしまった日なんかには特にそうだ。あんなふうにして死にたくはないし、自分の知らないところで自分の知らない人があんなふうにして死んでいるのだと思えばひどく沈んだ気分になる。
でも、戦争反対と叫ぶだけで本当によいのだろうか?
なぜ戦争が起きたのか、そこが問題だったはずなのだ。そこを置き去りにしていいというはずがない。アメリカとイラクの関係が悪化したのはなぜだったのか。それを改善するためになにがなされるべきだったのか。そのための具体的な話が、戦争反対の叫びにかき消されはしなかったか?ブッシュが悪者扱いされ、確かに理想の大統領には見えないのであるが、フセインイラク国内でどのように振舞っているのかを考えてみれば、ことはそれほど一方的に反米に傾くことができるほどに単純ではないと思うのだ。
もちろん簡単に説明のつく話ではない。そもそもアメリカとイラクの関係だけではないのだから。これは世界中のとてもたくさんの人々とつながっていることなのだ。その裏に見え隠れする石油利権の話だってある。第一外交の話と人道的な知見から戦争に反対することはまったくの別問題なのかもしれない。考えるほどに糸がもつれあってゆくのである。だとすれば素直に戦争で人が死ぬことにNoを突きつけることのどこがいけないのだ?戦争に反対しながら、イラク問題をいかに解決するかの提言をなすべし。はなはだしく理想論である。
結局戦争を支持する人にも、戦争に反対する人にも賛成できない__そういうことだろうか。
なんという半端ぶりであることか!そもそも世論というのはそういうものなんであって、そこに新たに実効性のある提言ができないのであれば大人しくであれ涙を流しながらであれいずれに組するかを選択しなければならないのである。つまり私は理想を弄び、結局ずるずると決断を先延ばしにしているに過ぎないのだ。我ながらイヤになる。
考えろ、考えろ、考えろ。しかしながら最後には決断しなければならない。考えることをやめてはならず、同時に決断することから逃げてはならないのである。