あえて今「2.0」について考えてみる

内容にはあまり関係がないかもしれませんが、最後の部分がちょっと気になりました。

「2.0」という言葉は「2.0」の当事者になったらもう使えない言葉で、「1.0」の人が「2.0」を見て驚いた時に使うべき言葉だ。

なんだかどこかで聞いたことがあるような……と思ったら、今までこれに類する言葉は世代間格差を表すために使われてたなあというところに行き着きました。1986年の流行語大賞に「新人類」ってのがありますけど、そういうやつです。上の世代が、まるで考え方の違う下の世代を理解しきれずに使った言葉。この場合にも呼ばれる側が自らを「新人類」と称したことはおそらくなかっただろうと思います。
「1.0」と「2.0」の場合でも、やはりそのほとんどにおいて世代の差は存在しているだろうという気がします。いつの時代だって変化への対応は若い世代の方が早いですから。それを眼前に突きつけられつつも、自らにも上の世代から「理解できない」というようなことを言われた時代があったことを思い出してある種の感慨にとらわれる__それが1.0から2.0に向けられた「生暖かい視線」ってやつなのかもしれません。
ただ、ここで面白いのは、今さかんに言われている「2.0」ってのはWebやジャーナリズムのような概念的な言葉の後ろにくっついているってことなんだと思います。ある世代の集団__つまりは人間を指してはいない。
これは様々な業界などで起こっている大きな変化と無関係ではないでしょう。ジャーナリズムをはじめとするマスコミや音楽業界など、既存の業界構造が大きく揺らいでいる部分で徐々に新たな胎動が起こりつつあります。ジャーナリズムではBlogの台頭だったり、音楽業界に関してはまだ「音楽業界2.0」という言葉はないみたいですが、iTMSのような新しい潮流はすでに存在しています。その変化があまりにも大きく、そしてまた多岐にわたるため、もはや世代をひとくくりにしては語れなくなってしまった。それが今の「2.0」という言葉の使われ方に現れているようにも思えます。
それらを引き起こしているのは、インターネットの爆発的普及に端を発した情報流の大きな変革なのでしょう。それでいながら、その大変化の主役であるはずのWebそのものが「2.0」の火付け役になっている。その変化の早さは驚くべきものです。渦の中心に近いほど回転速度は速くなる、という感じなのでしょうか。
そしてその渦は、世界を巻き込むほどの大きな潮流になりつつある。
「2.0」なんて、Web2.0を真っ先に感じ取った人たちにとってみれば、もうずいぶん手垢がついてしまった表現のように思われるかもしれません。けれどもそれが一番はじめに起こったことを忘れてはいけないような気がします。どんな言葉であれ概念であれ、人口に膾炙するにはそれなりの時間を要するものです。「1.0」と「2.0」の間に横たわる断絶が、自らの身の回りにも存在していることに、多くの人たちが気づきつつあるまさに今、そしてこれからが、本当の意味での大変化の時代になるのかもしれません。
であればこそ、ある程度醒めた視線が注がれるようになった「2.0」という言葉の持つ意味を、改めて考えてみてもいいのかもしれません。みんなが「飽きた」とか今こそがチャンスです。普通のやつらの逆を行けってことでひとつ。