Forget It

金曜日である。金曜日といえば次の日は土曜日であり、そのまた次の日は日曜日だ。そして土曜日は仕事が休み。週末である。仕事が終われば2日と少しの間、完全に自由に時間が使えるのだ。本を読もうがビデオを見ようが買い物に出かけようが滑って転んで車に轢かれようが有給の申請を出す必要はない。素晴らしいではないか。週末万歳。

というわけで終業1時間前にはもうすっかり浮かれ気分である。えへへ、今日は帰ってからなにをしようかな。ここで誰かとめくるめく一夜を過ごすという選択肢があればもっと幸せだったろうに、とも思うが、それは言うだけ野暮ってものだ。第一、そんな幸せな出来事が待ち構えているのならば私の脳味噌はとっくに溶けてしまっているに違いない。

しかし、どうやら少々浮かれすぎてしまったらしい。今日は別段買いたいものがあるわけではなく、さらにここしばらくはPCのメモリを増設するために財布の紐を引き締めよう週間と決めている。したがって外食もなし。なんにもすることがないのである。こんな日はとっとと帰るに限る。外はあいにくの雪模様で気温も低かったのだが、それほど風は強くない。身体が冷えることを我慢すれば、雪が好きな私にとってはかえっていい天気であるとも言えるかもしれないではないか。それにこれで帰ってから暖かい風呂につかりながら鼻歌を歌うという楽しみも増えた。えへへ、やっぱり週末ってのはいいもんだよねえ。待つことしばし、バスが来る。行列はかなり長かったのだが、運良く座ることもできた。うむうむ、やっぱり今日はいい感じだ。昨日遅刻してしまったのもすっかり忘れていい気分。世界で一番、日本で一番というのは大げさにしても、このバスの中で一番幸せを感じているのは自分なのではないかというくらいである。
……が、ちょっと待てよ?そういや今日は部屋にカギをかけてきたんだったな。そうそう、昨日は職場からの電話で慌てて飛び起きたからカギをかけ忘れたんだ。うん、確かにカギをかけて部屋を出た。間違いない。で、カギはどこだ?

そこから先は慌てたものである。バスのちょうど真中あたり、二人がけの席の通路側のやつが何やらもそもそと落ち着かない。背中に虫でも入ったのか?ああ抱えていた鞄が落っこちて通路を挟んだ隣の席に座っているおぢさんの足に当たる。さんざんじゃないか。む、今度は何をするつもりだ。ああなんだかものをなくしたのかねえ。しかしなかなかしつこいというか諦めが悪い。そのポケットの中はさっき捜したんじゃないか?あ、今度は鞄を開けて中を探り始めた。どうやら見つからないようだ。そりゃそうだ。いくらなんでも鞄に入れたのを忘れてポケットをそれぞれ2回も3回も探ったりはしないだろうよ。お、立ちあがった。降りる気だね。あ〜あ、通路に立ってる人をうまくすり抜けられてないじゃないか。まったく見てられないね。おいおい出口が閉まっちまったよ。あ、蚊の鳴くような声で降りるって言ってる。おぅおぅようやく降りられたよ。しかし、これからどうするつもりなんだろうね。やれやれ、まあいいや、おかげで一つ席が空いたしね。へへ、今日は思いもかけずツいてるみたいだ。

……そんなわけで私は雪の降りしきる札幌の街に一人立ち尽くしたわけである。愛用の懐中時計と財布は見つかるのに、なぜ今日に限ってカギがない?ううう冗談じゃないやい。確かにいつも財布を忘れて職場に戻るさ。週に3〜4回はな。う〜む、しかしよく考えてみれば今週は財布を忘れて帰るようなことはなかった気がする。道理で話がウマすぎると思ったんだ。くっそぅ。しかしよりによってせっかくいい気分だった今日忘れるか?この世にゃ神も仏もアニミズムもないってのかよぅ。こうなったら明日から拝火教の信者になってやる。おいらが死んだらシブめの鳥葬を一つ頼まぁ。香典はたっぷりでよろしく。……ってそうじゃないだろ。こんちくしょう、一体誰が悪いんだ。お前か?それともお前か?ああそうさわかってるさ。どうせ悪いのは全部俺だよ。ちぇ、八つ当たりして悪かったな通行人の皆さん。う〜しかし寒い。雪はぼんぼん降るし、こりゃたまらん。仕方ない、大した距離じゃないけどここは一つ奮発してタクシーとしゃれ込むか。ううう早く空車が通りかからないかな。あ、対向車線にはいっぱい通るのにこっちには……こない。このままじゃ凍え死ぬぞ。寝るな、寝てはいかん!……いや、別に眠くないけどさ。あ、ようやく来た。しかも目の前で止まる?神の使いかコイツは。なんだ、ただの信号待ちか。まあいい、お〜い、乗るぞ乗るぞ乗せてくれい。乗せろってんだよコノヤロ。泣くぞ。


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すったもんだの末、ようやく職場にたどり着いた。やれやれである。しかし、もう何度目になるかはわからないが、ついさっき「お先に失礼しま〜す♪」と茶目っ気たっぷりに挨拶をして出てきたところに忘れ物をしたからといってもう一度入っていくのはなかなか気恥ずかしいものがある。照れるというかなんというか、間が持たないのだ。どうせちゃちゃっと忘れたものを採ってまたすぐ出てくるんだから間が持とうと持たなかろうと構うこたなかろうと思えばさにあらず。すべからく人間関係というものはこういった一見地道な時の印象というのが大切なのである。ことと次第によっては今まで築き上げてきたものが音を立てて崩れ去れるのを目にしなければならないことすら皆無ではなかろう。逆に、こういった時のさりげない一言から将来の伴侶に巡り合うことだって確率的にはありえないことではないはずなのだ。う、緊張してきた。しかしたかだかカギを取るためだけにこれほどまでに思い悩まねばならぬとは、げに世の中というのは複雑怪奇なものだ。ええい、ここは一ついつものように「いや〜本当は帰るつもりだったんですけど忘れ物に気がついちゃいましてねえ参った参ったいやあ私って抜けてますねえへらへら」笑いでゆこう。よし、覚悟はいいな。何も臆することはないぞ……いざ。こそこそ。


「あれ?忘れ物?」
「いや〜そうなんですよあははは」
「なに、財布?」
「いやいや、そうそういつも財布ばっかり忘れちゃいませんよあははは」
「あ、ひょっとしてカギ?」
 ……なんでそんなにスルドイんだ。自慢じゃないが今まで財布を忘れたことはあってもカギを忘れたことはないというのに。なにせついこないだまで部屋にカギもかけないで仕事に来てたんだからな。どうだマイッタか。なぬ?ちっとも?ぐぬぬぬ。……いや、ここで動揺してはいかん。鉄面皮だ鉄面皮。ぶつぶつ。
「いや〜そうなんですよほんとに参っちゃいますねえあははは」
「ドアの前で立ち尽くしたとか」
「いやいやなんとかその前に気づきましたよあははは」
 立ち尽くしたのは降りしきる雪の中である。そろそろ引きつった笑いも限界にさしかかりつつ危険信号点灯間近だったのだが、ようやく机の中でボールペンやらシャープペンやらマジックやらに埋もれた部屋のカギを発見、ただちに救出。長居は無用、全速退去。
「あ〜、ありましたありました。それじゃあ帰りますね〜。お疲れ様でした〜あははは」
「はい、お疲れ様」
 いそいそ。廊下に出て、大きく一つ息をつく。やっとこ人心地である。しかし、いつあんなところに置いたんだ?う〜むまったく記憶がない。謎だ。

というわけでなんとか無事に部屋に戻ってくることができた。おかげでこうやっていつにもましてすさまじい文章を書いているというわけだ。まったくバスを降りて頭に雪が積もるばかりの時には一体どうしようかと思ったものだが、やはりなんとかなるものである。そう考えてみるとこの世もまんざら捨てたものではないらしい。

しかし、忘れ物をするというのもなかなかしんどいものがある。なんたって幸福から一転雪の降り続く夜の街に放り出され、ブツを奪還するには精神的に一戦を交えねばならないのだ。もうへとへとである。う〜、こんな日はやっぱり外食しちゃおうかなあ。いやいやなにを言う。さっきタクシーで600円払ったばかりじゃないかこれ以上の無駄遣いは死を招く。どうでもいいけど「死を招く」って「しおまねき」に似てるな。よし、帰りに東急ストアで肉を買って帰ろう。今日はフライパンとポータブルコンロで焼肉だあ。う〜んたまには豪華なもの食べたっていいよね。えへへ、やっぱり週末はいいよなあ。さ、早く帰ろ〜っと。

ことほどさように週末が精神にもたらす影響というのはかなりのものなのである。恐れ入ったか。

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