スポーツ中継の主役は誰か

世界水泳選手権に出場したのは北島だけじゃない
MSNジャーナルのマーティ・キーナートのコラム。ここしばらくは日本のスポーツ界がけちょんけちょんにされていたりする。
で、世界水泳の松岡修造と優香については何度か耳にした。いずれもボロクソである。それに加えて古館伊知郎ときた。面子だけ見れば『筋肉番付』の出演者だと言われても納得できる。
私はスポーツを観るのは好きだけれども、実の話世界水泳はまったく見なかった。北島の金メダルや世界記録のニュースを見て「見てみようかな」と思いはしたものの、結局は思っただけ。見てもいないのにエラそうなことを言ってもしかたがないけれども、このコラムを読むとやれやれと思わずにはいられない。
まあスポーツ中継ってのも難しいものなんだとは思う。なにせいつも盛り上がるとは限らない。強い選手が勝つ、という当たり前のことは、当たり前であるがゆえにつまらないからだ。だから放送する側としてはなんとしてもそのつまらないシチュエーションをエキサイティングなものにするために苦心惨憺することになる。選手の過去をほじくりかえしてみたり、ほんのささいなライバル関係や確執を針小棒大に取り上げてみたり。それが肥大化してしまったのが今のスポーツ中継なんだろう。
けれどもそれで伝わるものは、所詮所詮テレビ局によって作り上げられた人為的なドラマでしかないのだ。とはいっても登場人物は実在の人物だから普通のドラマよりもリアリティがある。最近のドラマはどんどんマンガ化していっているが、その隙間をスポーツ中継が埋めるというわけだ。とにかく感動させるか大爆笑させるか。ショッキングかセンセーショナルか。テレビ番組が進んでいるのはとにかく極端への道であるように見受けられる。
私がTVを見ないのはそういうのがキラいだからだ。
数あるスポーツを観ていれば、確かにつまらない試合だってあるだろう。というよりはむしろ、退屈な試合の方が圧倒的なはずだ。素晴らしいプレーや行き詰まるような熱戦はほんの一握りにすぎない。だが、だからこそそこに価値があるんじゃないのか?
それがどうだ。身の回りには人工的な感動が溢れている。そこに浸りきってしまったときに、はたして本当の感動というヤツのきらめきに気づくことができるのだろうか。ネオンサインのもとで星空の美しさに気づくことができるとでも?
私はそうは思わない。
そしてもうひとつ忘れてはいけないことがある。退屈だったはずの試合のなにげない一コマが、ふとしたきっかけで脳裏に思い浮かぶことがあるということだ。それはたとえば自らの守備位置に向かってダグアウトからかけてゆく選手の後姿かもしれない。あるいはテニスコートの中で、サーブの前にまぶしそうに太陽を見上げた選手のまなざしかもしれない。体育館の中に響く、バスケットシューズの小気味よいリズミカルな調べかもしれない。それは往々にして「なぜこんなシーンが?」と思うほどにささやかなものである。だがそれを思い出したとき、えもいわれぬ懐かしさが胸の中でとうとうと湧き出していることに気づくだろう。
もちろん作り上げられたドラマの中にだってそういうシーンはある。けれども、それらはやはり同じものではありえない。TV観戦から想い出なんか得られないと思う。人から与えられただけの感動で本当に満足できるのだろうか。人工の想い出はあなたのものなのだろうか。そうでないとすれば、それは一体誰のものなのだろう。
感動だとか想い出だとか、心を締め付けるものは本来誰のものでもなく、自分自身だけのもののはずだ。極端な話、それは誰とも共有できないものなのだとさえ言える。同じシーンを見て、同じドラマに感動するなんてことはありえない。素晴らしいパフォーマンスに感動する人がいれば、ある選手のそこにいたる道のりを思って感じ入る人がいて、ただひたむきに応援する人たちの姿に衝撃を受ける人がいてもいい。ひとくくりに感動といってみても、ひとつひとつを取り出してみればみんな違っているはずだ。
だとしたら、それくらいは自分で見つけたほうがいいと思う。与えられるものだけで満足してしまうなんて、それではまるでバカではないか。