日本人のアイデンティティ

ずいぶん前に買った「アイルランド歴史紀行」をいまさら読んでいるのだが、その中でアイルランドの生んだ文人についての記述が目にとまった。サミュエル・ベケットジョージ・バーナード・ショーウィリアム・バトラー・イェイツジェイムズ・ジョイスなど、世界に名だたる作家が多いことは改めてみても驚かされる。本書の中で、アイルランドの文学が『過去を現在に呼び覚まし、それをつうじて無気力と沈滞の現在をめざめさせた』という記述がある。そこが気になったのである。
無気力と沈滞の現在という表現は今の日本にも当てはまりはしないだろうか。
現代の日本人ほど自民族に対して誇りのない人々も珍しいような気がするのである。自虐と諦めこそが日本人の特質なのではなかろうかという印象が、長引く不況もあいまって強い。かつてのイギリス支配において、アイルランドの人々は同様の状況に置かれたことだろう。そのような状況の打破に、歴史的な文献を掘り起こし、民族的アイデンティティを自覚せしめた、というのがアイルランド文学のなした功績だったとしたら、日本においても文学は同様の役割を果たし得るだろうかと思うのである。過去の文化を再確認し、そのよさを知ることで日本人としての誇りを取り戻すことが?
どうもそれは難しいんじゃないかという気がする。
日本固有の文化といえば、おそらくは江戸時代までのものになるだろう。明治時代以降、日本はとにかく諸外国__西欧__に追いつけとばかりに彼らの文化を吸収することに血道をあげた。それによってわずか一世代のうちに列強への仲間入りを果たしたのであるが、同時に過去の日本文化を貶め、捨て去るという行為も同意に行われたことは間違いない。ヘタをするとそれらを恥ずかしいものであるかのように扱うことさえあったろう。西洋礼賛の気質は現代においても、いやむしろ現代においてより色濃い。それどころか、西洋がすでに体の一部として『当たり前のもの』となりつつあるのが現代の日本人である。体型の西洋化だけにとどまらず、その影響はすでに精神にまで及んでいる。そのような自国文化冷遇と日本人の西洋化を経た上で、発想の転換が果たして可能であろうか。
日本の文化を見直そうという動きがないわけではない。だがそのような動きは過去のものを過去のまま受け入れるだけのものにすぎないように見えるのである。確かにそれ自体は悪いことではないが、伝統芸能伝統芸能のままでいることに未来があるとは到底思えないのである。現代文化とドラスティックに絡み合うことによって、新たな文化へと昇華することこそが必要なはずなのだが、肝心の現代文化というのはまるで毛色の違う西洋文化である。まるで木を竹に接ぐような話ではないか。スーパー歌舞伎などに感じられる違和感は、ここに端を発するものだろう。明治から現代にいたる断絶があるがゆえに、日本文化の再生は難しいと思われるのだ。
日本人としてのアイデンティティの確立も、この断絶がゆえに困難なものとなろう。その現実に直面し、日本人はどう動いたか。そのあらわれがかの「自分探し」や「自己実現」というやつではないかと私は思う。
しかしながら視線が自己へと過剰に傾いた結果、かろうじて生き延びていた家族やムラのごとき日本的共同体は瓦解の危機に瀕している。「人に迷惑をかけなきゃいいんでしょ」と開き直る利己精神の肥大、そこから導かれる社会性の欠如もまたしかり。表面上は個性尊重型の西欧社会に近いのだが、内実はまるで違っている。これはなかなかに厄介な問題である。
ずいぶん長くなったし、そもそも考えがまだまとまってないので今回はここまで。