牛丼の主題による狂想曲

牛丼はすっかり悲劇の主人公である。ことに牛丼の代名詞とさえいえる吉野家での販売休止については反響が大きく、牛丼を求めて行列ができたりしてしまう。挙句の果てには「牛丼屋に牛丼がないのはどういうわけだ」と暴れる人まで出る始末。
そんな中で鈴木みそホームページの2004年02月12日分の指摘は面白い。記事単位にリンクが張れないのをいいことに引用しておくと、『「危ない牛肉」ではなく、「いつまで食べられるのか牛丼」という話にすり替わっている』というあたり。そう考えてみると、『食べ慣れた牛丼の味を惜しむかのようにほおばっていた』という読売記事がやけに叙情的すぎるように見えてくる。朝日BSE問題に関する特集ページにも「牛丼が消える」というエッセイだかコラムだかがあり、こちらもやっぱり牛丼に対する哀愁を切々と語る。
これらの記事を読んで「あぁ俺もあの頃は牛丼ばっかり食ってたなあ……」と涙に濡れる人が本当にいるかどうかはわからない。多分いないだろう。しかしそういう方向を狙ったんだろうな、とは思う。でもなあ。スローフードだとか日本の食文化だとかを盾にして問題視されることはあっても、牛丼をはじめとするファーストフードを褒めてる記事ってのはあまり見たことがないような気がする。するだけにこれは妙だ。いったいどういうことなのだ。皆そんなに牛丼が好きだったんですか。それとも「いやー、俺って実は牛丼野郎だったんだよー」と白状するのが時代の最先端なんですか。最新流行今年の流行語大賞は「牛丼」で決まりってまだ2月だというのにそんなこと言っちゃっていいんですかどうなんですかはっきりしやがれこの野郎。
おほん。
こういう場合によくあるのが陰謀論である。普段はけちょんけちょんにしていたくせに、急に牛丼を持ち上げるなんておかしいぞ。きっとなにかウラがあるのに違いない__とかいう考え方だ。曰く、これはイラクへの自衛隊派遣から国民の目をそらすための煙幕である。また曰く、国民の牛丼慕情をあおって早期に__しかも日本が求める全頭検査を回避しつつ__牛肉の輸出を再開させようとするアメリカの策略である。さらに曰く、牛丼恋しの感情はその器であった丼に転化され、人々は在りし日の牛丼様の姿を思い起こすために我先とばかりmy丼を購入するであろう__と深読みしまくった吉野家の丼を製造しているメーカーのマーケティング戦略である。いや、そもそも今回のBSE騒動自体が養豚業者の大陰謀。それを証拠に見るがよい、鶏肉までインフルエンザでどうにかなっちまったじゃないか。
進むにつれて急激にウソっぽい話になっているが、証拠がないという点ではどいつもこいつも似たりよったりである。最初のふたつがそれっぽく聞こえてしまうのは、所詮『それっぽい話』であるからに過ぎない。とはいえ、今のところ進展の見られないアメリカとの交渉に関するニュースが、どうにも影の薄いものになってしまっているのもまた確か。してみると底意があろうがなかろうが、あまり牛丼恋慕を募らせるのも考え物だと思うわけである。BSE対策がどうこうでなく、単に牛丼が食いたいがために多少テキトーな検査でもいいから輸入再開しちゃえ、というヨタ話がヨタ話でなくなってしまう恐れがあるではないか。人がせっかく考えたヨタを現実なんかにしてくれるな。やっぱり問題のすり替えはいけませんよ、ええ。
ところで、そういや吉野家の丼ってどこのメーカーで作ってるんだろうかと思ってちょっと検索をかけてみた。残念ながら製造元はわからなかったのだが、その過程で吉野家丼がオークションにかけられた上に21,000円なる値段で落札されている(リンク先はGoogle Cache)という衝撃の事実が明らかに。ぬへぇ。上に述べた話なんかもはやどうでもよくなってしまうくらいのインパクトを受けてしまいましたよ。そうか、やっぱり皆そんなに吉野家が好きだったんだ。