p1*[Review]詭弁トレーニン〜それは私の責任ではない

そんなことがあったんだそうです。よほど素晴らしい出来の台座であったのか、あるいは「脱構築的」な作品だと捉えられたのはわかりませんが、果たしてこの台座、どれくらいの期間展示されていたんでしょう。そしてどれだけの人がありがたくこれを拝観したのかと思えば少々ほほえましいものがあります。
もともとは頭部彫刻が本来の作品だったらしいんですが、その作者は

「作品の選別過程において、台座と私の彫刻が別々になってしまったのだと思います。ただの台座を選考委員が芸術作品にしてしまったのです」

と証言しています。ところが美術館側は

「彫刻と台座が別々に送られてきたため発生したミスだ」と説明。

と言っていて、若干の食い違いが認められます。単純に言えば、作者はこんなことになったのは美術館側のせいだと言っているし、美術館側は別々に送ってきた作者が悪いと言っている。果たして台座と彫刻はハナから別々に送られてきたモノなのか、あるいは選考途中で分かたれたモノなのか。謎です。ミステリーです。
まあどっちでもいいっちゃどっちでもいいことです。しかしどちらの責任によりこのようなおまぬーな事件が発生してしまったのか、というのは当事者にとって見れば大問題ですから、そう簡単には譲れないかもしれません。プライドとメンツをかけた一大論戦の幕開けかも。果ては血で血を洗う大抗争か、はたまた罵詈雑言飛び交う激論か。いいですね。燃えますね。江戸の華ですね。
美術館側はさらにこんなコメントも残しています。

「彫刻と台座がそれぞれ別の作品として展示選考が行われた。その結果、台座の方が芸術的だと判断され、頭部の彫刻は“落選”してしまった」

はたして芸術とはなんぞや、という根元的な問いが含まれてますね。実に深遠です。まあ現代絵画がラクガキにしか見えなかったりする私にはあんまり関係ないですけどね。ある意味、芸術か否かってのはエラい人のお墨付きの有無により判断されるものでしかないのではないか、とさえ思います。

「彫刻は大切に保管されており、作者に返却する用意ができている。芸術家が意図したとおりに作品が展示されないのは、一般的に認められることだ」

素晴らしい言い訳です。仮に今回の事件が美術館側の手落ちだったとしても、この文面だけを読んでみれば、確かにそういうもんだよなあ、と思ってしまうじゃないですか。なんて便利な。これはぜひ様々な場面で応用すべきものです。

  • 芸術家が意図したとおりに作品が解釈されないのは、一般的に認められることだ(的はずれな批評をした評論家の述懐)
  • 患者が意図したとおりに病状が改善されないのは、一般的に認められることだ(医療ミスを犯した医者のつぶやき)
  • 作者が意図したとおりにBlogのエントリが理解されないのは、一般的に認められることだ(誰かを罵倒をしたはいいものの、一晩明けてみたら大後悔時代の幕が開けたブロガーの韜晦)

他にも色々考えられると思います。例外的事象を無理矢理一般論で語ることによって誤魔化す、というのはよくある詭弁のテクニックですが、今回の例にあるように責任逃れには絶大の威力を発揮すると言えましょう。皆さんもこのテクニックを自在に操って、大人の階段を一歩上っていたければと思います。
ただし一段上るごとに大事なものをひとつずつ捨てる必要があります。ゆめゆめお忘れなきようお願い申し上げます。