言葉の限界を知り、その上で最大限に使え

酔っぱらって書かれているせいか、いつになく意識の核に近いところがするっと出てきているような印象を受けました。
そのちょっと前の「サバイバルという言葉が嫌いなら使わないで話そうか」というエントリに至る一連の流れを読んで、どうも「一番伝えたいことを伝えきれていないんじゃないか」と隔靴掻痒しているように感じていたのです。もっと乱暴な言い方をするのであれば「俺が伝えたいのは『サバイバル』って言葉がどうこうってことじゃねーのになんでわからんのだお前ら!キー!」ってとこでしょうか。
で、その一番伝えたいことというのが、本エントリでいうところの「命を輝かせるためなら、何をやってもいいんだ」ということなのかなあと思われました。



それらを通じて私が思うのは、言葉を使ったコミュニケーションの限界というやつです。
今さらいうまでもなく言葉ってのは難しいもので、ひとつのことを伝えるのに幾通りものやり方があります。そこでどういう言葉を選ぶのかは、人それぞれで違っている。なぜ違うのかと言えば、その人がそれまで歩んできた来歴や、言葉の趣味、その言葉を選択する瞬間の気分等、実に様々な要素がその背景に控えているからです。だから同じ人が同じことを伝えようと思っても、その時々に応じて選ぶ言葉が変わってきたりもする。昨日発した言葉でさえ、今日の自分にはもうそぐわない。
そういう不確かなものをもってして自分ならぬ人へなにかを伝えようとするのだから、そこに限界があるのは仕方のないことだという気がします。自分にもっともぴったりくる言葉が他の人にもそうだという保証は、どこにもないんですから。
しかし、そうではありつつも誰かに何かを伝えようとして言葉を紡ぐことをやめるわけにはいかないでしょう。伝えなければならないことがあり、伝えたいことがあって、言葉はそのためにこそ存在するものだからです。
限界があるからといって言葉を手放すというのであれば、角を矯めて牛を殺すことになるでしょう。だからこそ、我々は不完全な道具しか持っていないことを知りつつも、それでどうにかする他はない。それがどういう意味であれ、手持ちのカードで勝負するっきゃないのです。
これは梅田さんのエントリの中でも同じようなことが書かれているし、先日訳したビル・ゲイツの講演でもそれに類する話があったと記憶しています。

Blogのように文章のみを用いたコミュニケーション手法の可能性を追求すればこそ、そのことがより強く意識されるように思われます。そこには音声や息づかい、身振り手振りなど、言葉を補完してくれる要素がない。それゆえに言葉の可能性をより深くえぐっていく必要があり、その結果として見えてくるものもあるのだろうということですね。
別にシニカルな意味で言ってるわけではありません。しょせんすべてを伝えることなんかできないんだ、人は完全にはわかりあえません!と斜に構えるのは、三十路を越してみるといささか気恥ずかしいものがあります。単にそうなんだという事実確認みたいなものですね。繰り返しますが、手持ちのカードを交換することができなければ、その範囲内でもっとも効果的なやり方を考えればいいだけのことです。そこで慌てふためいたっていいことなんかひとつもない。
だから、もし本当に伝えたいことがあるのであれば、手を変え品を変え、何度も何度もそのことについて語り続ければいいと思うのです。違う言葉を使って、同じことについて語ればいい。昨日の言い方では通じなかった相手にも、今日の言い方では通じるかもしれない。それでもダメなら明日は別の言葉を使ってみればいい。あの人はダメでも、この人には伝わるかもしれない。そんなことを繰り返しているうちに、受け止めている人はずいぶん増えるでしょう。同じことを伝えるのに幾通りものやる方があるとのが言葉というものの特徴なのであれば、せいぜいそれを使い倒してやろうじゃないか。
飽きられることを恐れる必要なんかありません。「もう飽きたよ」というのは「もうあなたの言いたいことはわかったよ」というのとだいたい同じ意味ですから、むしろ飽きられることをこそ求めてもいいのかもしれない。なにせ目標は果たされたのです。だからその時には、またどこかで会えることを祈りつつ手を振ってさようならを言えばいい。

まあ梅田さんはきっとそれくらいのことはわかってるんだろうと思います。伝えたいことが何なのかをしっかり見すえ、それをどうにかして伝えようとしていることが、これまでの文章などから読み取れるような気がするのです。だから今後も、執筆や講演、対談のように、色々な手段を通じてその「伝えたいこと」を発信していくんでしょう。その過程で細部が変わることはあるかもしれないけど、核の部分はおそらく変わらないのだろうと思われます。
それはおそらく、人生の芯や信念、哲学と呼ばれるに相応しいものなんでしょうね。もちろん、この他にもぴったりくる言葉は色々あると思います。だからそれをどう呼んでもいっこうに構わないのですが、そういうものをしっかり持っている人のことを、内容に賛同できるかどうかはともかくとして、羨ましいなあと私は思います。できればそういう人になりたいものだと思うけど、さてどうだろうなあ。
というかこの文章も酔っぱらって書いたみたいになってしまいました。でもあくまでも素面だってんだから、よほどタチが悪いのかも。ぬう。