妄言

しばらくダンスに打ち込んでいたのですが、ちょっと頑張りすぎたのか右足首をおかしくしてしまいました。したがって現在休養中。テーピングとサポーターでガチガチに固めているので歩きにくいったらありません。おかげで足首の捻挫に関することにはずいぶん詳しくなったのですが、この知識が今後訳に立つことがあるのかどうか。あと、テーピングもそれなりにできるようになりましたけどこれもまた訳に立つことがあるのかといえばやや疑問です。



もっとも、いままでフィジカル面に関しては無知蒙昧のまま生きてきたせいもあって、新たに知ることのひとつひとつがいちいち新鮮です。つーかあれだ、今まで自分の身体のこともロクに知らなかったんだなあと思うわけです。練習して今までできなかったことができるようになって、今まで自分の身体も思い通りに動かせてなかったんだなあということも多いですが、まあ似たようなもんですかね。

コンピュータに関して色々勉強していたときも、同じようなことを感じたもんです。それまで単なるブラックボックスに過ぎなかったものが、実は自分の手で制御することができる。そのことに喜びを覚えたからこそ、飽きもせずコンピュータってものを使い続けてるんだと思います。こないだ久しぶりにjavascriptを使う機会があったんですが、あれこれ試行錯誤しながら「ああ、これこれこの感覚だよ!」というものが蘇ってくるのを感じました。

私の場合はたまたまダンスとコンピュータだったわけですが、人によって興味を覚えてのめり込む分野は様々でしょう。けれども、今まで知らなかったことを知ることの喜びには、ある種の普遍性が潜んでいるものと思います。大げさに言ってしまうと、それは世界のほんのひとかけらを自分の手の内に納めていくという行為なんですな。

もちろん一人の人間が知りうる範囲ってのはごくごく限られたものに過ぎません。どんなに頑張ったところで、世界のすべてを知ることは敵わない。極端なことを言えば、自らのことですらそのすべてを把握し、意のままとすることはできないでしょう。まあそれは仕方がない。その種の諦めは必要だろうと思います。つまるところ我々は諦めとともに生きていかなければならないし、それはやはりある種の哀しみと隣り合わせのものでもある。

けれども単にそれを悲観するのだけでは面白くない。むしろわずかであれ、何ものかを手に入れることができたという事実をこそ喜びたいものです。そうでなければなにかを学ぶ意欲というものは生まれてこない。
 諦観とその種の喜びとは、ぱっと見矛盾する観念であるように見えるでしょう。けれどもそのふたつを同時に抱え込むことは実のところそれほど難しいことではない。多分、誰もが知らずのうちにやっていることなんじゃないかと思うのです。そのことに自覚的になれるのであれば、世の中はもっと味わい深いものになるような気がするのですけれども。