真夏の無駄遣いは楽しい〜「サマーウォーズ」感想文〜

5月はじめに49ヶ月住んだ東京を離れ、札幌に引っ越しました。それ以来ダンスもほとんどやらなくなったので毎日が退屈で仕方ありません。これはよろしくない。というわけで「サマーウォーズ」を観に行ってきました。

いやー、物語はこういうふうにも進化するのか。

もちろんCGを駆使した場面には感心することしきりです。ストーリーを構成する要素としても恋愛、バトル、ゲームにおける心理的駆け引き、そしてノスタルジー。しんみりとくる場面もあるし、とにかく盛りだくさんで飽きることはありません。トータルとして約120分、十分に楽しんだと言えます。

しかしながら本作でもっとも感心したのは、ストーリーテリングの部分です。もっと言えば、ストーリーテリングの不在にびっくりしたのです。

そういう意味において、本作は物語というもののひとつの極北にあると言えるでしょう。あるいは「物語」ですらないのかもしれないとさえ思います。本作筋書きはともかくお約束に満ちた見せ場の連続で、ポイントからポイントへ飛び移るがごときスピード感もかなりのものがあります。

けれども見せ場と見せ場をつなぐ線というものは、この作品には存在しません。見ている途中で何度も疑問符が頭に浮かぶのですが、なぜ?どうして?いつの間に?なんで?なにが?というそれらの疑問は、すべて虚空に放り出されたまま顧みられることがない。主人公をはじめとする登場人物の心理描写もほぼ皆無です。

次はいったいなにが起こるんだろう、あそこの場面にはこういう意味があったのか、彼ならここはこう考えてこう動くのに違いない__と観客を巧みに揺さぶり、イメージを喚起するのがストーリーテリングとするのならば、それはやっぱりこの映画には存在しないのです。鑑終えてしばし、本当はもっと長い映画のダイジェスト版でも見たかのような気分になる。語られるべきなにかが、山のごとくに残されているように思われる。

いやはやまったく、と考えながら思い当たったのが、これはアクション映画なんかでいうところの「ジェットコースタームービー」そのものだなあということでした。

次から次へと怒濤のごとくに見せ場がやってきて息つく島もない。立ち止まったり振り向いたする余裕もあらばこそ、主人公はすべてに対応しなければいけません。かたや憧れの先輩に引っ張り回されたかと思えば、もう一方ではバーチャル世界でのバトルが待っている。そうこうしている間に先輩は泣き出してしまって励ましを求め、かと思えば今度は世界をカタストロフィの影が覆うという始末。

そこでは物語に深みを与えるべき要素は徹底的に排除されています。数学オリンピックに出場しそこねたという主人公がそれで鬱屈するでもなく、祖母と喧嘩別れした息子が愛憎の狭間で苦しむこともない。なぜそうなるのか?という問いに答えは与えられず、投じられた疑問符はどこにもたどり着きません。そうこうする間に二転三転したストーリーにはクライマックスが訪れ、主人公は自らの能力をフル活用の大活躍。世界は救われちょっとしたカタルシスもあってエンドロール。気がつけば場内の照明が灯っているという寸法です。

これじゃ深みも何もあったもんではない。感情移入もあらばこそ、押し流されるがごとくに時は過ぎてゆきます。あれ、もう終わり?余韻を味わおうにもそんなものはなく、すぽんと現実に放り出された気分になります。そんなんでいいのかなあ、という気持ちはもちろんあります。

でも、そんなんでいいのでしょう。ジェットコースターに乗りながら「あのカーブはなぜ右ではなく左に曲がるのか?そもそも我々はなぜ洗練されたトロッコのようなモノに乗ってどこにもたどり着かない旅路を行くのか?」なんて考えないのと一緒です。つまりは押し寄せる奔流にもてあそばれながら、その感触を楽しんでおればよろしい。

かような意味において、本作は素晴らしいエンターテインメント作品であると言えるでしょう。とにかくお約束なシチュエーションをオートメーションでつなぎ合わせたような筋書きとはいえ、そこを指弾するのは野暮ってもんです。システマチックに組み立てられたシネコンあたりでドリンクとポップコーンを抱え、お約束だなあと笑いながらもそれがゆえの安心感に身をゆだねて、真夏の120分を浪費するのです。

それはきっと、とても楽しいのに違いありません。夏休みの朝寝坊が至高のモノであるごとく、無駄遣いが楽しくないわけがないのです。