物語化する自己


桜庭一樹赤朽葉家の伝説」を読みました。
これは「百年の孤独」に似てるな、と思ったら案の定そういうことのようです。作者が語ってるんだから間違いないでしょう。南米を舞台とし、七世代百年にわたる「百年の孤独」に対して、本作は山陰・鳥取を舞台とし、三代五十年に及ぶ歴史を描いています。現代を舞台としていることも手伝って、より親しみやすい作品になっていますから、他の人にお奨めするのも安心。そのぶんエキゾチズムやダイナミズムには欠けますが、非常に濃密に描かれた物語はそれを補ってあまりあるものと言えるでしょう。引き込まれて一気に読み切りましたが、スケールも大きく、非常に満足しました。
本作の主人公は、赤朽葉家の女性三代をはじめとする「人」はもちろんのこと、「家」としての赤朽葉家、ひいては日本という「社会」の縮図としての紅緑村、そのすべてです。これら三つの要素は互いに影響を及ぼしつつ、いずれもが欠くべからざる要素として密接不可分に絡み合う。このような物語の構造が「百年の孤独」的であるという所以であり、そういう意味では主人公は「物語」そのものであると言えるのかもしれません。
さて、本作では「百年の孤独」にくらべ、より世相、つまりは戦後の日本のあり方が色濃く反映されていると感じました。本筋としての赤朽葉家の女性三代の物語では、時々の時勢や流行を織り交ぜながら、時代によって移りゆく人間のありようというものが巧みに描き出されています。それと平行し、時には絡み合いながらも、赤朽葉家の生業としての製鉄という産業のあり方、そしてそこに立ち現れる様々な人々が、これもまた綿密に描写される。時代時代の世相を反映する個々の物語を織り込みながら、物語は厚みをもって展開されていきます。
第一章、第二章においては、戦後の復興からバブル景気に至るまでの、熱く若々しい時代が語られます。主人公である万葉、毛毬もそれに負けず劣らず個性的で、まさに波瀾万丈というにふさわしいスペクタクルが繰り広げられる。読んでいて一番おもしろいのは、もしかするとこの部分かもしれません。
けれども、私が本作中でもっとも強い印象を受けたのは、第三章序盤の「すべてがあらかじめ終了したこの国」というフレーズです。第一章、第二章における語り部であり、第三章の主人公ともなる瞳子は現代に生きる女性ですが、この言葉は単なる一個人の吐露であることを超えて、現代の若者が感じているイマの日本を的確に表しているのではないかと感じました。敗戦からの復興、高度成長期、バブルの狂乱を経て世界にその名を知られる存在となった日本。すでに望むべきものはすべて手に入れたかにさえ見える時代に生まれたことに対するある種の虚無感とでもいうべきものが、見事に凝縮された表現だと思います。
その虚無感を出発点として、物語は終幕へと向かって流れ続けます。いずれ劣らぬ存在感をもった万葉と毛毬に比べ、瞳子はいささか存在感に欠けるようにも見受けられる。けれども、「神話」としての前二章を引き継いだのは、まぎれもなく現代の息吹を身にまとった彼女その人なのです。「語り手であるわたし、赤朽葉瞳子自身には、語るべき新しい物語はなにもない。ほんとうに、なにひとつ、ない」という寂寞たる語り口で幕を開ける瞳子の物語は、いかにして「せかいは、そう、すこしでも美しくなければ」という述懐にいたるのか。そこはまあ、読んでのお楽しみとしましょう。
さて、この物語の読者である我々もやはり、「すべてがあらかじめ終了したこの国」に生まれついています。いくつもの歳月といくつもの時代を超え、今この現代でバトンを渡されたのは、もしかすると瞳子だけではないのかもしれない。そんなふうに考えてみたりもします。本作中においても指摘されるとおり、この世界はすでにフィクションにより浸食され、分かちがたく結びついています。それは誰もが少なからず意識していることでしょうし、後戻りをすることも、おそらくは難しい。
そのような世界の中で物語に触れるという行為は、果たしてなにを意味するのでしょうか。それは単に物語を自らのうちに取り込むだけでなく、物語の枠組みの中に自ら取り込まれることをも意味しているのではないか__ふと、そんなことを思いました。もしかすると、世界は幾星霜ののちに、ふたたび神話の世界へと立ち返ってゆくものなのかもしれません。