澄んだ音のする夜に

つくづく自分には記憶力がないのだな、と思わされることがぼくにはある。たまに、ではなくしばしば、しょっちゅう。それはそろそろ記帳しなきゃいけないはずの通帳だったり、締め切り間近のクラス会の出欠ハガキだったりとさまざまだけれども、そいつらは大体さして重要なことではないのでまだことなきを得ている。
 そうやって軽く見ていると、そのうちとんでもないことをやらかしてしまいそうな気がして結構怖いのだが、それでもしばらくしてしまえば怖いという感情ごとまたぞろすっかり忘れてしまう。困ったものだ、と自分でもよく思う。

季節にまつわるもろもろのことも似たようなものだ。春になれば緩む風の心地よさを思い出し、夏になれば鮮やかなまでに晴れ渡った青い空のもとで暑さとはこういうものだったのかということを思い出す。秋には色づく木々と地面に落ちた枯葉を踏むときの小気味よい感触がある。
 季節の訪れとともにそういったことを思い出し、なぜ忘れていたのだろうといつも思う。まるで初めて感じたことのような新鮮さをいつも感じる。そうだ、こんなすばらしいところがあったんじゃないか。よし、もう忘れないぞ。
 ところが次の年にはもうそんなことは忘れていて、また初めて気がついたかのような顔をしてすましている。妙に既視感があるなあ、などと思いながら、ふとした瞬間に「あ、去年も同じようなことを思ってたじゃないか」。これである。
 困ったものだとはたしかに思う。けれどもそれもまた楽しからずや、というふうにも思う。そして楽しからずや、なんて言っているうちは同じことの繰り返しなんだろうな、という結論に落ち着くのだ。
 たいした幸せ者である。

冬はなんといっても静かな夜だ。いつの季節にだって静かな夜のひとつやふたつはあるものだけれども、冬の夜の静けさは群を抜いている。深い藍色の空に月が浮かんで、白い息を吐き出しながら歩く足元できゅっ、きゅっ、と心地よい雪鳴りがする。こまやかな雪が月の光を浴びてきらめく様は、こんなものが見られるなら寒いのも我慢しようという気にさせてくれる。もちろんそんな思いを抱きつづけるには暖房の効いた部屋の誘惑が強すぎるわけだが、そういうことでもないと冬はただ寒いだけということになってしまう。ぼくはすべての季節の中で、やっぱり冬が一番好きだ。
 すべてが青白くほのめく中に、街頭のナトリウムランプだけが暖かな光を投げかけている世界で、ぼくは少しだけ宮沢賢治の気持ちがわかったな気持ちになる。

冬の夜が静かなのは、雪のつくりにある。細かな繊維が絡み合ったような構造には吸音作用があるというのだ。ひとひらひとひらが、普段は気が付かないような雑多な音さえも消し去ってくれる。固いアスファルトが跳ね返してしまうような音を積もった雪が吸い取ってしまうので、車の走る音さえもくぐもったように聞こえる。
 通りから人の姿が途絶える頃になると、耳に心地よい静寂が降りてくる。晴れた夜には地表から熱が逃げる放射冷却現象が起きて気温がぐっと下がる。冬には晴れた日のほうが寒いというのはそのせいだ。曇っていると熱が雲にさえぎられて遠くまで逃げてゆくことができなくなってしまう。だからといって寒くないのか、と言われると力いっぱい否定しなきゃいけなくなるんだけど。
 地面に近い方が寒くなると、やがて遠くの音がはっきりと聞こえるようになってくる。音は暖かいところから寒いところに流れてゆく性質があるからだ。音源からまっすぐに走ってくるのに加えて弧を描いて上空から降ってくる音が合わさると、ほどよい残響が余韻を残してくれる。原理的にはコンサートホールの音響効果と同じものらしい。

高校の頃まで過ごした家から少し離れたところに炭鉱があって、夜になると地下に入ってゆくのか、それとも石炭をたくさん積んで戻ってきたのか汽車の警笛が聞こえたものだ。それは18年間のうちにすっかりあたりまえのものになってしまって、とりたててどう思うとかいうたぐいのものではなくなっていた。それが気になって眠れなくなるというくらいに、ぼくが繊細な神経の持ち主だというわけでもなかったのは言うまでもない。
 だがぼくがいくらがさつな性格をしているからとはいえ、冬になるとその汽笛がとてもよく聞こえることくらいには気がついていた。少し耳をすましてみるくらいで、車輪がレールの上を転がる音だって聞こえたくらいだ。ことん、ことん、ことん。一定のリズムを刻んで、遠いところで汽車が走っている。
 その音にぼくは不思議な気持ちのよさを感じていた。ことん、ことん、ことん。警笛が鳴る。その音の裏側から、またことん、ことん、ことん。それを聞くとなぜだかとても安心できるような気がした。
 しかし、一体どうしてなのだろう?そのリズムが心臓の鼓動に似ていたから?それとも単に遠くから聞こえてくるくぐもった音が耳にやさしかったから?
 そうかもしれない。そして違うかもしれない。もうそこから離れてしまったぼくの懐古趣味ということもあるだろうが、それはそれでいいような気さえするのだ。冬の夜の静寂の中で、ふと足を止めて音のない景色に耳を澄ますことがある。どこからかまたあの汽車が走る音が聞こえるような気がして、そしてもう決してあの音を聞くことはないのだと気が付くまでのその時間の中に身を置いていたいような気がして__。

ぼくは釧路という街で生まれて、18年間そこで過ごした。
 つい先日、そこにあった太平洋炭鉱の閉山が決まった。

あの聞きなれたリズムも、汽車の警笛も、ぼくはいつしか忘れていくだろう。きっかけを失ったままにして、それを思い出すこともなくなっていくかもしれない。

そういうものだろうか?

そうかもしれない。違うかもしれない。とにかくぼくは、静かな音のする夜にまた立ち止まってみようと思う。