ぼくのしあわせ

「しあわせ」とはなにか。
 カギカッコつきの「しあわせ」をしかつめらしく論じてみせるのは、ある意味とてもラクなことだ。人間は幸せであるために生きているのだから、誰もが必ず一つは幸福観を持っているし、その尺度は人によって変わることを考えればよほどのことがない限りは「まあそういう人もいるよね」で許容されてしまう。あとはそれっぽい理屈をこねくりまわすことができればいい。
 けれども、世の中は時として一見理屈に合わないような動きを見せてくれるものであったりする。そしてそれをどれだけ頑張って説明してみても、そんなに面白い話にはならないだろう。大抵の人にとって、大切なのは理論よりも結果なのだから。
 としてみれば、理屈で攻めるよりは直感__インスピレーションとして処理してしまったほうが腑に落ちることもあるだろう。具体的な例をあげて、「うんうん、そういうこともある!」と言ってもらえるとしたら、たとえそれが一人しかいなくともぼくはきっと満足できるのではないかと思う。もしそれで納得がいかないのであれば、あまりにも複雑すぎる世界に向けて溜息をついてみるべきだ。なんとかやりすごすことができるかもしれない。

それはさておき__おいしいものを食べるというのは間違いなく幸せなことだ、とぼくは思っている。生きるためのエネルギー源というだけのことなら、うまかろうがまずかろうが大して問題にはならないはずだ。にもかかわらず、ぼくはまずいものを食べたときは心が荒んでしまうし、逆においしいものを食べてからしばらくの間は、その記憶を反芻するだけで思わず頬がゆるんでしまいそうになる。
 今日はパンをいくつか買い込んできた。歩いて2〜3分のところにあるスーパーの中に店を構えているパン屋があるのだが、きちんと釜で焼いたパンを並べてくれる。手間がかかっているお陰で幾分値が張って、いつもはせいぜい気が向いたときにひとつふたつ、慎重に慎重を重ねて見繕うくらいなのだが、今日はたまたま半額セールをやっていたのだ。持ち前のいやしい根性が頭をもたげて、ついついいくつも調理パンをトレイに乗せてしまった。それでも半額の張り紙に吸い寄せられるようにしていつになくたくさんの人がパンを物色していたのを見て、ぼくはその、なんというか__ホっとしたわけです。
 買ったパンは焼きたてではなかったから、ある程度味は落ちているのかもしれないけれども、それにしたところでいつも買っている大量生産薄利多売なものと比べるとやはりおいしい。食べたときにきちんとパンの香りがするという本来は当たり前なことがひどく新鮮なのだ。ちぎってみるとしっとりしている中にもふわふわとした弾力があるし、表面はパリっと音を立てる。見た目こそ朴訥だけれども、そこにかえって安心感を覚えてしまうのは、とにもかくにも外見だけは整えられている安売りパンの影響なのだろうか。
 しかしあらためて考えてみると、食べるということが五感をフルに活用することに通じているのがよくわかる。ふだんの味気ない食事では香りを楽しむことも、手触りに驚くことも、心地よい音を耳にすることもほとんどないからだ。ヘタをすると見た目にもこだわらず、味わいすらしないでかっこんでいることだってある。これでは研ぎ澄まされた感覚など持ちようがないわけだ。どう転んだって食通を名乗れるはずもない。
 まあなにを食べてもそれなりというのはマズさにぶちあたって心を波立たせることがないだけ幸せなのかもしれないが、少なくとも前向きな幸せではないことは確かなように思える。そんなぼくがたまにきちんと作られたパンを食べたりして、おいしいという幸せを感じるというのは、もしかすると普段眠っている嗅覚や触覚、聴覚が目を覚まし、使われるということへの喜びなのかもしれない。

もちろん食べることのほかにも幸せを感じることはたくさんあるわけだが、その中には普段まどろんでいる感覚や能力を活用することに対する喜びが潜んでいるものも少なからずあるのではないだろうか。
 たとえばぼくの父親は釣りを趣味にしている。ヒマを見つけては、それこそ寝る間も惜しんで__大抵は日曜日の__夜も明けないうちから浜に出かけていった。今こそ離れて住んでいるけれども、ぼくがまだ実家にいた頃は、宵っ張りのぼくが床に着く前にいそいそと出かけていったりしたものだった。当然前の日なんかはぼくには思いももつかないような早い時間に布団に入っていたし、その一日のための準備にウィークデイから随分時間をかけていたことを思い出す。それでも一匹たりとも釣果を上げず、ボウズで帰ってくることもあった。それでも父は決して釣りを止めようと思ったことはなかったみたいだし、ボウズならボウズで笑いながらそれを家族に話したりもした。
 ぼくは釣りというものをやったことがないからその心境というのはどうにもわからなかったわけだけれども、魚を釣り上げる瞬間の爽快さだけを求めていたのであれば、30年以上もそんなことを続けていたりはしなかったのではないだろうかと思う。あくまでも憶測に過ぎないけれども、おそらくぼくの父はポイントを探してまだ暗い砂浜を歩き回り、魚のいそうな場所を目掛けて竿を振ることの方をより楽しんでいたのだ。もちろんその先にはアタリを捉える瞬間や、大物を釣り上げることの喜びもあったはずだが、それはあくまでも余禄のようなものだと考えていたように思える。普段仕事をしているときには感じることのない開放感はもちろんのこと、人ならぬ自然を相手に五感を研ぎ澄ませていることそれ自体の喜びが、なによりも大きかったのではないだろうか。
 その結果がときとして食卓に並び、そこでまた食べることの幸せを感じているぼくがいたりしたわけである。

もちろんこれは「しあわせ」の持つ一つの側面にすぎないだろう。たとえばスポーツ選手は苦しい過程を耐えに耐え、最後に勝利という大きな見返りを受け取るわけだが、これは今ぼくが言った「しあわせ」のかたちとはちょっと違うかもしれない。他にも勉強という過程を楽しんでいる受験生はあまり多くないようでもあるし、結婚やら子育てやら、ぼくのあずかり知らない領域にある「しあわせ」は随分たくさんあるようだ。
 いまさらぼくがスポーツ選手になることは多分ないだろうし、出産後の幸福感なんてのはもちろん絶対に経験できないことだ。それはつまり「しあわせ」という多面体の全体像を捉えることはぼくには不可能だし、きっと他の誰であれ同じだろうということを意味している。
 そんな中でせいぜいできることはといえば、具体的な体験をひとつひとつ積み重ねていって、機会があれば誰かにそういう側面のいくつかを教えてあげることくらいだろう。もちろん、それはそれでそんなに悪くないことだ。全てを知りえないことが必ずしも不幸に直結しないくらいには、たくさんの「しあわせ」が世の中にはきっとあるだろうし。

ところでパンを買った帰り道、僕は自転車のカゴにその包みを乗せていた。一緒に2リットルのペットボトルに入ったお茶も買ったので、パンとは別のけっこうでかい袋があらかじめカゴの中には入っていた。パンの袋はその上に危ういバランスで乗っけていたと言うのがきっと正確だろう。一緒にクリーニング店から引き取ってきた服はさすがにカゴには入りきらず、片手に抱えたりもしていたから、かなりアクロバティックな操縦をしていたわけだ。
 ともあれ歩道と車道の間にある段差で自転車ががくんと揺れた。普段なら気にも留めないくらいの振動だったのだが、そのおかげであろうことかパンがアスファルトの道路に落っこちてしまったのだ。幸いパンは一つずつ袋に包まれていたので汚れてしまう心配はなかったけれども、慌ててブレーキをかけたせいでさらにパンはぽとぽとと転がり落ちていく。あわわわ。
 取るものもとりあえず自転車を止め、慌ててパンを拾う。自転車が通り過ぎたあとにパンの袋がぽとぽと並んでいる。日は長くなったとはいえ、20時を回ればさすがに空は真っ暗だ。しまいには路地からクルマがやってきてヘッドライトでぼくを照らす。それでもなんとかぼくもおいしいパンも轢かれることなく回収には成功したけれども、随分と肝を冷やしてしまった。
 しかし、街灯の光に照らされるだけのもうすっかり暗くなった道路に、道しるべよろしくパンが並んでいるというのは……なんとも平和な光景だなあ、と思う。で、それが幸せなのかどうかって?

そうだな……少なくとも、ぼくにとってはね。