環境とカネ

NHKスペシャルの再放送を見ながら書いてます。京都議定書とCO2削減、それにともなう排出権売買の話。京都議定書ってのは1997年12月に開かれた地球温暖化防止京都会議で採択されたものですね。1990年を基準年とし、2008年に日本は6%、アメリカが7%、EUが8%だけCO2を削減するとしている。排出権取引という概念もこの京都議定書に盛り込まれたものです。これは市場主義万能論、とでもいうのか、市場メカニズムによる温暖化対策と呼べそうなシロモノですね。

ただし現実にはアメリカが京都議定書から離脱するなど、道のりは簡単なものではありません。CO2排出権取引についても、排出量の見積もりなどに問題があるとして反対するNGOがあり、そうかと思えば排出権市場が過熱気味なのを受けてアメリカの企業が市場参入のために京都議定書への復帰を求めていたりもする。もともと排出権取引を議定書に盛り込むよう強く要望したのはアメリカだったわけですが。

削減量の見積もりに関する問題を解決するために、チェックを行うための第三者機関を設ける動きもあるようです。その一方では2008年に間に合わせるため、すでに日本の企業が開発途上国に省エネを売り込んだりもしているらしい。ただしCO2の削減をいかにして評価するのかは考え方によって大きく左右されてしまう。状況はひどく混沌としているように見えました。

市場メカニズムにのっとったCO2の削減を「カーボンニュートラル」と呼ぶこともあるようです。豊かな生活を送るのであれば、カネを出してCO2の排出権を買わなければならない時代が来る。そんなことがまことしやかに語られています。

しかし市場メカニズムによる温暖化対策の規模が大きくなればなるほど、そこには利権が生じてきます。個人投資家が排出権売買にからんでくるという事例もすでにあるようですが、この傾向が進めば進むほど、当初のCO2削減という目的からは逸脱していってしまうのではないか。「環境に貢献しつつ、利益も期待できる」というのが売り文句になっていますけれども、このような美辞麗句にこそ懐疑的な目を向けなければいけないのではないか。

問題はCO2は無限に削減することができるのか?ということに帰着するんじゃないでしょうか。今排出権を生み出しているのは主に開発途上国です。でもそれとて遠からず限界に達するでしょう。世界中が「乾いたタオル」になるわけです。そうなったときにいったいなにが起こるのか。

限られたパイの争奪合戦が排出権の価格を高騰させることは想像に難くありません。それはさらに投機的性格を強めていくことでしょう。豊かな生活をするために排出権を買う必要があるならば、そのとき貧困層はいかにして生活の質を向上させることができるのか。かつてあったCO2の排出権はすでにその手から離れてしまっています。そこにあるのは富裕層が貧困層から排出権を搾取するという、市場主義経済に見られる構造の焼き直しにすぎないのではないでしょうか。

この場合、本来の目的は「CO2を削減することにより過剰な地球温暖化を抑止する」ことだったはずです。そこに市場メカニズムを介入させることにより、一時的にコトがうまく運んでいるかのように見えることもあるでしょう。けれどもかえって本来の目的が見えにくくなる危険性が高い。果たしてそれでいいのか?

私は現時点で排出権取引を行うことには疑問を覚えます。地球温暖化を証券や先物取引のようなマネーゲームと同列にとらえてはいけないのではないか。今できることは地道な省エネ活動くらいしかないかもしれません。けれどもまずはそこからはじめるよりほかにないとも思います。それは停滞を意味することもあるでしょう。意識的な停滞は人類の歴史上初の試みかもしれない。しかしカネは環境よりも尊いのか、という問いを抱えておくことは必要なことのように思います。

結局感傷的な結論になってしまったような気がするな。でも正直なところ、環境ビジネスにはどこかにあさましさがあるように思えてならないのです。偏狭かな。