知識蓄積と理屈構築

今回の研修ではSolarisの導入についてのお勉強なんかしてます。あんまり仕事で役立つことはないからダメかもーとか思って希望を出したらあっさり通っちゃたんですね。でもって、自宅でLinuxをいぢくったりしているうちに徐々にUNIXの知識も増えてきたかと思ってたんですが、まるきり甘かったということが実際に受講してみて判明。恥ずかしさのあまり「やはり人間謙虚が一番」とか思っております。

もちろん右も左もわからないままじゃお話になりませんから、Linux系の雑誌だとか初心者向けの書籍だとかを(インストールCD目当てとはいえ)買ったりもしてるわけです。WebをめぐってTips集を『お気に入り』に登録とかもするわけです。そうしているうちに断片的な知識は徐々に集まりつつあった。ところがそういう知識がまるっきり体系化されてなかったんですな。甘いって言ったのはそのへんの話。それを実感させられている真っ最中ということなんですよとほほほ。


とはいうものの、雑駁に並べられた知識を筋道だてて整理していくってのは難しいよなあ、とも思います。細かいことにはやたら詳しいんだけど、話をさせてみるとさっぱり、って人は少なくないですね。これは知識こそ多いけど、知性に欠けてるんですな。言いすぎか?なんというか、理屈を組み立てる能力ですね。人にモノを説明するのがすごく上手な人がおりまして、なんでそんなにウマく話せるんだって聞いったことがあります。その人が言うには、分野によってそれぞれ『文法』があるから、そこをしっかり抑えればいいんだ、ってことだそうですよ。その『文法』をつかむ能力と理屈を組み立てる能力ってのはほぼ同じ意味なんじゃないかと思います。

知識を詰め込むってのは単なる暗記に近いですから、ある程度は誰でもできちゃいます。『雑学に詳しいヒト』なんて、実はたいした褒め言葉じゃないんですね。でもそのたくさんの知識から自分なりの理屈を組み立てていうのには、またまるっきり別の能力が必要になるんでしょう。そしてこのやり方ってのがずいぶん身につきにくいときてる。これはもう『モノづくり』に近いことで、一度聞いてハイ理解できましたってな話じゃないように思えます。試行錯誤を繰り返して体に叩き込む種類の能力なんじゃないかな。

ところが日本の場合、議論の場に乏しいですから実地訓練ができない。ディベートが一種のゲームになっちゃってるなんて私には信じられませんよ。で、学校の試験だと年表や公式を覚えたもん勝ちってところがある。というかそっちの比重が非常に高い。このへん、ちょっとバランスが崩れてるんじゃないのってのは多分みんな気づいてることなんでしょうけど、じゃあどうしたらいいのかというとこれがなんだかよくわからない。

んー、とすると理屈組み立て能力を持った先生だとか、愚にもつかない論争を受けて立ってくれる友人だとかに恵まれるってのはすごく幸せなことなんでしょうなあ。先日ご紹介した『やわらかな心をもつ』って本の中で、数学者の広中平祐が「日本の学生は質問しない」って言ってまして、あー、そのへんの引っ込み思案がよくないのかなーとか思ったりもしたんですよ。でもこれよく考えると25年くらい前の本じゃんか(笑)。その頃の学生が今頃教壇に立ってる計算になっちゃうわけで、こりゃ相当運がよくないとダメじゃないかという気がしてくる。なんかあんまりいい心持がしません(苦笑)。


ま、とりあえずUNIXについてそういう勉強ができる機械に恵まれたことは感謝しといたほうがよさそうだなあ、という話なんですけどね。なんだよエラそうなこと言っといてお前の意見がぜんぜん建設的じゃねえのはどういうことだコラって言われりゃそれまでなんですごめんなさい。しかしよくよく考えてみると、Windowsについての知識だってずいぶん怪しげなものに思えてくるなあ。あっちもこっちもって感じで手を出してて本当にいいんだろうか?

えーと、幾何学微分積分が同じ『数学』でくくられるようなもんなのかな?UNIXWindowsもコンピュータの使い方って言っちゃえばそれまでだもんな。じゃあいいや。