修辞的思考 〜論理でとらえきれぬもの

面白いとは思うのだが、ちょっと物足りない部分もあると思ってしまった。しかし考えてみるとその「物足りない」というのがクセモノ。なぜかといえば、それはこの本が踏み込まずにいるべき領域に踏み込むことを求めてしまうからなのだが。
ともあれ、最近自分の文章を読んでいて「どうにも余裕のない文章」だと感じることが多い。特に真面目なことを書く場合にこれが顕著で、剥き出しの論理に終始してしまっているように見えるのだ。「遊び」の部分が極端に少ないのである。そこで少し表現技法も知っておいたほうがいいと考えてこの本を買ったわけだ。
とはいえこの本が文章の書き方について述べた本であるというわけではない。どちらかといえば議論の方法について書いた本だというべきだろう。いかにして相手を説得するのか、また一見もっともに見える論説の裏にある欺瞞を見抜くための考え方が、シェイクスピアを初めとする著名な作品を例にあげて示されている。
そのあたりはたしかに面白いのである。人間は論理によってのみ説得されるのではなく、そのためにはまた別個の方法が存在する。そのことは確かに直感としてはわかるのだが、その方法については今まで断片的な知識しかもっていなかった。新たな世界に触れたような思いがするという意味で面白いのだ。
しかしながらなぜ「物足りない」と感じてしまうのか。たとえば第三話では「罪と罰」が、第四話では「山月記」がとりあげられている。そこで明らかにされるのはラスコーリニコフの抱える弱さであり、李徴の持つ自己欺瞞である。言われてみればたしかにその通り、一読しても感じることのできるであろう感触が筋道だてて説明されている。なるほどと首肯せざるをえない。
けれども問題はまさしく「ラスコーリニコフの人間的な弱さ」「李徴の持つ自己欺瞞」を指摘して話が終わってしまうところにあったのだ。これはそもそもそういう本であり、題材はあくまでも「テクスト」である。けれどもこれは今まで私が考えてきた文学の読み方からすればまるで中途半端なものなのだ。弱さを描き、自己欺瞞を描くのはあくまでも作者なのだから、描かれたものには作者の意図というものがあるはずなのである。なぜこれを描いたのか、その意図とは一体どこにあるのか?作者はこの作品を通じてなにが言いたいのか?表面的に物語を楽しむだけでなく、その向こうがわまで見通すことが文学の楽しみ方だと思っていたのである。
然るにこの本ではそこへの言及がまるでない。「ラスコーリニコフは弱い人間ですねー。ほら彼の言ってることからそれがわかる」「李徴の言ってることは自己欺瞞ですよ。落ちたエリートってのはみじめですねー」という感じで、「え、そこで終わり?」と読みながら何度も思ってしまった。そんなこた「罪と罰」や「山月記」を読めばわかるのである。そこからもう一歩踏み込んでいかんかーい。
しかし改めて考えてみればこれはやはり「いちゃもん」なのである。あくまでもこれは修辞の本なのであって、文学論の本ではない。私の感じた「物足りなさ」というのはその辺を履き違えているのに過ぎないのである。この辺はやはり経験不足というものか。とはいうものの、やはり文学を「テクスト」として扱うのにはどうも抵抗を感じてしまう。表現技法などを学ぶのに文学はやはりよい教材たりえるので、この抵抗とはどこかでうまく折り合いをつけていかなければならないのだろう。けっこう大変そうだ。
ところで上の文章には否定語が多いね。これはまさしく「山月記」の分析で指摘されていたところで、ここから李徴の告白が「見せかけの控え目さ」に過ぎないことが明らかにされるのであった。
あいたたた。