「大衆の反逆」雑感(2)

議会への非難についての話。議会の改革が必要であるということと、議会が無用であるということとはまったく別のことであり、両者を混同してはならないとオルテガはいう。これは議会のみならず、他の多くの要素についても同じことが言えるだろう。無用論を唱えるのであれば、それに代わる新たな制度が提言されなければならないのであるが、現実には一方的に攻撃を加えるのみで新たな提案はまるでなされないという例が多く見受けられるように思う。特にそれが選挙戦における各候補者の演説に散見されると感じてしまうのだが、どうだろう。それが政策論争であると言われても困るのだが。批判をする際はまず自らの足元を見直すことが必要だ。
また、オルテガはヨーロッパにおける衰退感の原因が各国人が自らを「地方人」であること__自分が以前よりも「小さくなった」こと__を発見したことにあるとしている。さらにそれは「まさに彼の能力が増大し、すでにもう自分が入りきれないような旧式の組織に突き当たってしまったところから生まれてくる」とある。能力は増大しているのに自分が以前よりも「小さくなった」と感ずるというのは一見矛盾である。しかしながらこれが「はばたけばすぐに鉄格子にぶつかって傷ついてしまうあの大きな翼をもった鳥」にたとえられていることは、現代において個人の能力がいかに大きなものになったかにを考えてみればよいだろう。この鉄格子とはこの場合、ヨーロッパにおける各国家なのであるが、以前はその国家こそが「世界」であったのだ。自らが大きくなり、鉄格子に閉じ込められているという事実に初めて気づいたからこそ、彼らは国家が実は「世界」ではなく、一「地方」にすぎないことに突き当たったのである。オルテガがこの没落感を指して「純粋に主観的な原因である」としたのはおそらくそういうことなのではないか。
そして、国家という概念が鉄格子として今日の発展を阻害するのであれば、それは超越されなければならないものとなる。そのための取り組みこそ、あのEUなのではないか。まあ今まで読んできた中にはヨーロッパ共同体のことは書かれていないし、なにせ1930年の本だからオルテガがそこまで予見していたのかどうかはわからない。だがそのように考えてみると、EUというものが既存の国家を超えるべく、歴史の必然として提唱されてきたようにも見えるのである。
そう考えてみるとやはりヨーロッパというのは侮れない、と思うのだが。