正しく疑うということについて

最初に『ゲーム脳』なる単語が話題になったのは昨年の7月くらいですから、もう1年ほど前の話ってことになっちゃうんですね。その後色々なところで反論がなされていますから、ある程度アンテナを張っている人にとってはこの本が『トンデモ』であることは周知の事実なのではないかと思います。ゲームが子供の成長に悪影響を与えるかどうかはともかくとして、そこに至る道筋があまりにもあまりであるというのが結論でしょう。

それがなんで今ごろ話題になっているのかといえば、斎藤環氏という専門知識を持った方がインタビューという形できちんと反論されていること。あとは一度同様の記事がAll About Japanで掲載後に削除されたということがあるようです。もっとも実際には今年の4月に再掲載されているようなので、この時期のずれはちょっとはっきりしません。ネタ元は『サイコドクター暴れ旅』の読冊日記だったんですが、このへんが発信源なんでしょうか。


トンデモ本がバカ売れするって話は『脳内革命』や『神々の指紋』、『買ってはいけない』など、いくつか例があるわけですが、じゃあなんでそんなことがおきるのかっては考えてみると面白いんじゃないかと思います。たとえば

  • 作者に権威のある(ように見える)肩書きのあること
  • 警世的であること
  • マスコミで取り上げられていること
  • 専門的な知識が駆使されている(ように見える)こと
  • 一般的に「そうであってほしい」という願望が存在(潜在)していること

という感じでしょうか。この辺は今ざっと挙げてみただけなので、他にも色々あると思います。「他にもこんな原因があるんじゃないか」ってのがあれば教えていただければ幸いですね。で、実際にはこれらの要素がいくつか絡み合ってトンデモ本が売れるわけです。しかしどれだけ売れようともトンデモ本をつかまされてそれに踊らされてるってことには変わりがないですし、やはりそれはシャクでもある。そうならないためにはやはりそれなりの対策が必要でしょう。ではちょっと長くなりますが、それぞれの項目について考えてみることにします。


まず作者の肩書き。主張の正当性ってのは内容を吟味して判断を下すべきことですから、肩書きは本来無関係のはずです。カール・セーガンがその著書の中で『トンデモ話検出キット』なるものを提示してまして、その中にも

権威主義に陥るな。権威の言うことだからといって当てにしないこと。権威はこれまでもまちがいを犯してきたし、今後も犯すかもしれない。こう言えばわかりやすいだろう。「科学に権威はいない。せいぜい専門家がいるだけだ」

と書かれていたりする。こういう心構えをもっておくことが必要だということですね。

とはいうものの、実際に内容を吟味するのはとても時間と手間がかかる作業だというのもまた確かです。それを節約するために本を買うという側面もあって、肩書きをチェックすることによる権威主義の完全な排除ってのはムリじゃないかという反論があるかと思います。これについては実際私もそう思いますし。ただ、現在の日本人の権威主義ってのは若干行き過ぎてるとも思うんですね。無批判に権威を受け入れすぎてるんじゃないかと。そこに少しだけ懐疑の目を導入してみても損はないと思います。


次は警世的であること。警世的であること自体は悪いことじゃないですけど、だからといってむやみやたらと危機感を煽るのは考えものでしょう。確かに将来を危惧するとなると真面目になにかを考えた気になって、それが一種のカタルシスになったりもするわけですが、だからといってそれが主張の正しさを示すよすがになるとは必ずしもいえません。どれだけ真剣に世を憂いたとしても、それが誤った推論から導き出されていたとすればそれは「空が落ちてくる(杞憂)」と言っているのにすぎないのです。「警世的かどうかは主張の正当性とは無関係」ということですね。

これはその次に挙げた「マスコミに取り上げられていること」についても同様で、マスコミでどれだけ持ち上げられようともダメなものはダメです。もちろん正当かどうかの検証をマスコミに期待したい場合も往々にしてあるんですけど、やっぱり全面的に依存するわけにはいかないんですね。なぜかというと報道のウラになんらかの利害関係が存在する可能性があるからです。マーケティングの一環としてマスコミを利用するのは当然あって、それは広告という形のみならずいわゆる「パブ記事」なんかもある。しかもパブ記事と普通の記事を見分けるのはなかなか難しい場合も少なくありません。美辞麗句のみが並べ立てられている場合は当然ですが、きちんと論理的な手順を踏んだ評価がされているかどうかもチェックできれば文句なしですね。論理的かどうかの判断については次の項目のところで書くことにします。


というわけで専門的な知識が用いられている場合。「作者に権威的な肩書きがあること」の項でも内容を吟味することこそが本来必要だと書きましたが、これから述べることも最終的には同じ結論に繋がっていきます。
 しかし内容が専門的であればあるほどそのチェックは難しくなっていくというのが事実でして、最終的には同じ専門分野に携わる人の検証を待つしかないとさえいえるでしょう。しかしそれを理由に思考停止に陥るのはやはり危険ですから、簡単なチェック方法を用いてみるくらいのことはしてみてもいいのではないかと思うんですね。そのチェック方法というのは

  • データはきちんと提示されているか
  • 原因と結果の間に論理の飛躍はないか

の2つ。まずデータの提示というのは基本中の基本ともいえますが、これも厳密にやろうとすればなかなか難しい。それだけで1冊の本が書けたりしちゃう世界です。まあ素のデータ、調査方法くらいは提示されていないとお話にならないってくらいは覚えておいて損はないかと思います。

で、「原因と結果の間に飛躍がないこと」についてですが、今まで述べてきたなかでもここが大きなキモになると思います。これは本当に論理的に話が進んでいるかどうかということで、だとすれば「飛躍がないこと」ってのは当たり前といえば当たり前のチェックポイントだと言えるでしょう。ところがここで引っかかる主張が世の中には散見されるんですね。なぜかというと、まず結果ありきで考えちゃう場合が多いからでしょう。簡単に言えば「絶対こうなるに違いない!この結論以外は認めねー!」と思い込んでコトにあたってしまってるってことです。どれだけ愛着のある推論だろうとダメなときは諦めるしかないはずなんですが、まあ世の中には諦めの悪い人がいるんですね。それゆえにチェックが必要だというわけ。

じゃあ具体的にはどうやってチェックをするのか。論理を組み立てる場合、普通はまず推論があってその後にそれを検証するためのデータが提示され、そこから推論が正しいかどうかの判定を行うって流れになります。「推論→データ→結論」って感じですね。というわけで、本を読む場合なんかにはどこからどこまでが推論なのかなー、というように区切りつつ読んでみてそれぞれの区切りをはっきりさせちゃいましょう。その後で推論→データ→結論の流れの中にある「→」のチェックをする。推論の検証に使われているデータは妥当なのか、そこから結論を導き出す際のデータの解釈はおかしくないか、という感じです。すると意外に「そりゃねーだろ」という「→」が見つかったりするんですね。ひどいときには「→」がないなんて場合もあります。「このデータは明らかに〜であることを示している」なんて、なかなかにうさん臭い。
 あと、別のパターンとしてまずデータを提示してから推論を導きだすってのもありますが、その場合にも同じようにデータ→推論を分離してみましょう。すると「なんでそのデータからこの推論が?」と疑問に思うことがあると思います。その疑問に対する解答は「→」の部分にあるはずなんですが、その「→」が存在しなかったり、仮にあったとしてもそれが疑問をを増幅するだけの場合には要注意。

ここで重要なのは推論やデータ、結論単体なのではなく、そこに至る「→」の部分であるということです。どれだけ結論がセンセーショナルなものであろうとも、「→」の部分に欠陥がある主張に価値はありません。どれだけ専門的な内容であろうとも同じことです。
 もちろん時にはその論理が妥当なのかどうかの判断が下せない場合もあるでしょう。その場合には態度を保留することも必要になるかもしれません。その部分が理解できるまで調べてみてもいいですし、たまには「理解できない本を書いた作者が悪い」と厚かましくなってみるのもいいかもしれないですね。


最後は「「そうであってほしい」という願望が存在(潜在)していること」。これに対しては、今まで常に外側に向けられていた目を内側に、つまりは自分自身に向ける必要が出てきます。自分にとって都合のよい主張はつい無批判に受け入れてしまうという性質がどうにも人間には備わっているらしいんですね。たとえば煙草を吸う人は「喫煙は健康を損なわない」という学説があればそれに飛びつくでしょう。今回話題にしている「ゲーム脳」についても、ゲームをすることを快く思っていない層に強くアピールしたことは間違いありません。このような場合に今まで書いてきたような論理の検証がきちんと行われているかどうかは非常に疑問だと言えるでしょう。
 このようにして生じた思い込みはなかなかに強固で、それを突き崩すためには、自分の中にその主張を信じやすくしている願望があることに気づくほかなかったりします。もちろん自分を疑うってのあんまりいい気持ちのすることじゃありません。それゆえこの対策については他のものに比べても難易度が高いといえるでしょう。

これについてはひたすら謙虚であれという以外にないのかもしれません。ひとついえるのは「俺は十分謙虚だ」とか思い出したら黄信号ってことでしょうか。本当に謙虚な人はそんなふうには考えないからなんですが、この落とし穴ははいたるところで口をあけていて、どれだけきちんとモノを考えることができる人でも陥る危険性のあるワナだったりするものです。

ただし自分に対して疑いの目を向けることがいかに難しくとも、本当の批評眼を持つためにはこれを避けて通ることはできない、ということは指摘しておきたいと思います。自己批判がなければ一旦傾き始めた場合に修正することができなくなってしまうからなんですが、それは「自説にしがみついて解釈を捻じ曲げた」トンデモ本の作者となんら変わるところがありません。トンデモ本を見抜くために、今までいくつかの対策を示してきましたけれども、それらはこの自己批判の精神なしでは画竜点睛を欠くものとなってしまうのです。これは逆もまたしかりで、自己批判のみで他人を疑うことを知らなければやはり正常に機能しているとはいえないでしょう。つまり外側と内側に向けられた懐疑の視線は車輪の両輪であって、どちらを欠いても正しい効果は期待できないんですね。確かに正しい自己批判は難しい。けれどもだからといってそれを怠ってよいということにはならいないんですね。


ふう。随分長々と書いてしまいました。結局のところ、今まで言ってきたことってのは全部「疑え」ってことなんで、読んでてヤんなっちゃった方もいらっしゃるかと思います。でも結局はそれ以外に方法がないのもまた確かなんですよね。騙されるよりは疑り深い方がマシだってことです。正しいかそうでないかに関わらず、ものすごい量の情報が氾濫している現代において、いちいち疑うってのは大変なことですし、今後もそれは変わらないでしょう。書評だとか口コミ情報に頼ることも必要だと思います。でも結局そこで下されている評価を信じるかどうかを決めるのも自分自身なのは変わりません。だとすれば、必要最低限の懐疑精神は現代人の基礎能力だとさえ言えるのではないでしょうか。「疑う」という行為にはどうしてもネガティブなイメージがつきまといがちですが、健全な懐疑というものも存在する、ということを少しでも感じていただけのであれば幸いです。