喋ること、説明すること、そして議論すること

T's Diaryさんの「考えてしゃべらなきゃ!」に触発されて、思ったことを延々と書いてみる。これを反応といっていいのかどうかは微妙なところ。
新聞などでは失言問題が取りざたされることが多いけれども、実際に国会議員の話などを聞いてみると、これがなかなか唸らされるところがある。メリハリをつけ、こちらの心情をたくみに揺さぶり、飽きさせることがない。さすがにこれで生きてきただけのことはあるな、と思わせられるくらいには、彼らの喋りは鍛えられていると思うのだ。
ではなぜかくも__といえば、その話す内容に問題があるのだろうと感じる。新聞などでは彼らの話術は伝わらない。それだけに内容そのものがダイレクトに伝えられるのである。話術の衣で巧妙に隠されたものが浮き彫りになる__言葉は悪いが化けの皮がはがれるというやつだ。そこで読む側は彼らの話にはまるで内容が伴っていないことに気づく。先にあげた国会議員の話についても、確かにその場では感心するのだが、あとになって思い出すとそういや何を喋ってたんだっけ?ということが少なくない。
あるいはTVの討論番組を見てみるのもいいだろう。そこで展開されているのは揚げ足の取り合い、人の話を聞かずに自分の言いたいことだけをまくし立て、野次は場合によって恫喝に変わるという、さながらスラップスティックのようなものだ。およそ議論と呼ぶにはほど遠いやりとりである。
思うに、喋ること、説明すること、そして議論することは、それぞれ似ているようでいてずいぶん違うことなのだ。いわゆる議員さんたちは喋る能力には秀でている。しかし説明能力、議論能力に関してはお世辞にもほめられたものではないのではないか。今回の古賀議員の騒動についてもそれは言えるのであって、彼に足りないのは明らかに説明能力である。涙ながらの演説は話術の一技法としてはアリだ。けれども今の状況は、それだけでは覆い隠せないものになってしまってるんじゃないかと見える。
新聞やTV、Webを通じて、彼らの発言はほとんどの場合「間接的に」伝えられるものになった。一歩引いたところで見ると、その発言がいかに虚仮おどしなものかがよく見えてしまう。シラけてしまって政治離れを起こすのも無理はないんじゃないだろうか。
もっとも、足りないものがわかっていればあとはそこをなんとかすればいいだけの話である。きちんと説明__そこには釈明も含まれるかもしれない__できること、そしてきちんと議論のできることこそが議員として求められる資質なのである。考えてみれば当たり前のことだ。けれども、残念ながら現状がそうなっているとは思えない。
ところで__翻って考えてみると、これは彼らを選んだ私を含む有権者の責任でもあるのだ。彼らの巧みな話術をすりぬけてその内実を読み取ること。そしてその内容をしっかり吟味して投票すること。「そんなにウマくいくわけないよ」という意見はもちろんあると思う。だが、たとえば外国の人に「なんでそんなヤツを選らんだんだ?」と聞かれたときにどう答えればいいのだろう?少なくとも現状では、私は答えに窮してしまうだろう。それがいいこととは思えない。だったら改善するべきだ。少なくともその努力はしたいと思う。