価値観をぶつけあう前に

新宿に行く途中の電車で、面白い格好をしたお爺さんを見かけました。今時珍しいくらい色落ちしたデニムの上下。上はベストになっていて、その下にジャージを着てます。そして靴が今時の女性がはくようなロングブーツ。なにやらファッションというよりはそのままテキサスに帰った方がいいんじゃないかという感じです。
私もあまりファッションにはこだわりませんけど、さすがに強烈な違和感を感じました。もっともそのお爺さんは私の目の前を横切ってすぐ隣の車両に移ってしまったので見たのはほんの一瞬のことです。しかしすげえインパクトだったなあ。



何度思い返してもすげえなあ、などと記憶の反芻をしていたんですが、そのうちふと「人間は見た目じゃない。中身だ」という言葉を思い出しました。なんでそんなことを思い出すのかはよくわかりませんけど、まあ思い出しちまったものは仕方ありません。電車はそろそろ中野に着こうかというあたりです。中野から新宿までは快速で一駅でしかないので、もうすぐ着くなあ。そんなことを思いつつも、しかし思考は思いついてしまった言葉の方へとどんどん引きずられていきます。
人間は見た目じゃなくて中身、なるほどその通りなんでしょう。しかし私はどうもこの言葉が信用なりません。いや、この言葉が信用ならないというのではなく、この言葉があまりにも安易に使われることが気にくわないと言った方がよさそうです。
そうは言っても見た目も大事だよ__ということじゃありません。見た目が大事か、中身が大事かというのはある種の価値観の衝突なんですが、それとはまた違う。むしろ私が聞きたいのは、「見た目じゃなくて中身が大事」というからには当然それなりの中身を持ってるんだよね?ということです。さらにはそこから、じゃああなたが大事だと思ってるものって何なの?それを磨くために何をしてるの?__そういうことを聞きたいのです。
これはずいぶん意地の悪い質問のような気もします。もしもその人が単にファッションに興味がないことのエクスキューズ(あるいは方便)として「見た目じゃなくて中身が大事」と言っているのなら、この質問によっておそらくそのことが明らかにされてしまうでしょうから。それだけではなく、「見た目じゃなくて中身が大事」であることをアピールするために「こだわらない見た目」が演出されているのであれば__つまり、あえてカッコ悪いカッコをしているのであれば__それは結局のところ「見た目」による自己アピールという意味で「見た目」にこだわる人と同じ穴の狢であることがバレてしまったりするかもしれません。
なんだかずいぶんカギ括弧の多い文章になってきました。
けれども私としてはいきなり価値観をぶつけあうよりは、相手の価値観をより知ることのできる質問をしたいと思うのです。ぶつけあう前にできることはたくさんありそうな気がするのです。
しかしなぜこんなことを考えてしまうんでしょう。正直こういうやり方はしんどいです。時間もかかるし、なにより自分の言いたいことだけ言ってそれでおしまいにするほどラクなこともないので、さあこっちの番だと腕まくりした時にはもう私の目の前には誰もいなくなっていることも少なくない。
それがわかっていながら、なぜそんなやり方を続けるのか?それは私に確固たる価値観がないからかもしれません。だから相手の価値観を真っ向から否定することができずにこんなネチっこい質問をまず思いつく。だとすればずいぶん狡いヤツもいたものです。もしくは「口は一つで耳は二つなんだから、話すことの二倍聞け」という言葉に縛られている、なんてこともありそうです。これは最初のに比べればまだしもマシな言い訳になるかもしれませんが、結局のところは表面を取り繕っているだけのものなのかもしれない。結局狡いヤツだということには変わりがない。……
考え出すとキリがありません。無限回廊に陥ってしまいそうになるので一旦は置いておくことにしたいと思います。とりあえず今のところはこうやって自分の言いたいことをさんざん書き散らかしたことで満足しておいていいのかと思います。エラそうなことを言ったところで、本当に自分がちゃんと人の話を聞けているのかなんてわかりませんから、その戒めにもなるかもしれない。Simon&Gurfunkleの「The Boxer」に

All lies and jest, still a man hears what he wants to hear
And disregards the rest

なんて歌詞があったなあ。なにかにつけてこの歌詞を思い出します。
……つーかこんなことを無駄に考えていたら電車が新宿に!乗り過ごしちゃうよ!乗り過ごしたらあのヘンなカッコしたジジイのせいだぞ畜生!