雑想 〜敗北の上塗り

昨日のエントリで目が悪くて困るとか書いたんですが、「「姿勢性症候群」が増加中--「同じ姿勢」に医療関係者が警鐘(CNet Japan)」なんて記事を読んでこれは姿勢にも気をつけないといかんぞとか思いました。しかし背筋を伸ばして座るとディスプレイから離れてしまうのでますます文字が読めません。もうダメだ。
仕方がないので設定を変えて14ポイントのフォントを使ったりしています。MSゴシックはこのサイズだとビットマップフォントで表示されて細くて読めないのでHGゴシックEとか使ってます。目が悪いのもここまでくると一種の障害なのではないかという気さえします。というわけでこれからは普通に文字サイズが可変のサイトを運営されている方はバリアフリーを名乗ればいいと思いました。



そういう意味でいうと、私の目というのはもうデジカメのオートフォーカスにも劣る性能しか持っていないのではないか、という気がしてきます。うーむ。しかしよく考えてみれば単純な計算能力ではCPUの足下にも及ばないし、記憶力はHDD以下です。大容量のものであれば半導体メモリにさえ負けるでしょう。すでに人間は機械に凌駕されまくっているのだなあと思いました。
しかしさらに考えてみれば蒸気機関車よりも速く走れる人間だっていないわけです。世界初の蒸気機関車はイギリスで19世紀初頭に登場しているらしいですから、人類の機械に対する敗北の歴史はすでに200年にわたって刻まれ続けていることになる。
まったく大したものです。

かつて人工知能が話題になったときには倫理的な議論が随分あったような記憶があります。そのあたりの話としては、IBMのDeep Blue対カスパロフだとか、最近だと日本将棋連盟がプロ棋士とコンピュータとの対戦に一定の制限をかけたことが話題になってます。
自動車がどれだけ速く走ろうとも、あるいはCPUが1秒間に何億回の演算を行おうとも人間の尊厳は冒されないらしいのですが、コンピュータがチェスや将棋の強い人に勝つことには色々意味があるみたいだってのは面白いと言えば面白い話のような気がします。今さら考える葦である、という言葉を引いても仕方がないことなのですが、人間の尊厳というのは思考するところにあり、ということなのでしょう。しかしその分水嶺は一体どこにあるのやら。
そういえば「考える脳 考えるコンピューター」って本が面白いですよ。まだ読み終わってないけど。

かつては地球が宇宙の中心であると考えられていた時代がありましたが、事実は必ずしもそうではなく、太陽を中心とした恒星系における惑星のひとつでしかありませんでした。そして太陽系ですら銀河のほんの片隅を占めるのにすぎず、銀河ですら宇宙の中ではごく当たり前の存在に過ぎないことがどんどん明らかにされていったわけです。
カール・セーガンは「惑星へ」のなかでこれを「大降格」と呼んでいますが、二度目の大降格はいったいいつやってくるんだろうか、と思います。
もはやそういうときがやってくることに疑いを持ってはいないらしいですよ。これからの人類の歴史ってのは、ある意味敗北の上塗りになるのかもしれません。

ところで、コンピュータの昔話をするときに必ずと言っていいほど登場するアラン・ケイは、「未来を予測する最も良い方法は、自分で未来を作り出すことだ」と言ったそうです。
そして地球外知的生命体を探索するためのSETIというプロジェクトが存在している。
見つけるのと作り出すのと、どっちが早いんでしょうかね。

今週はなんだか雨ばっかりだなあ。