大回顧展 モネ

六本木の国立新美術館まで、「大回顧展 モネ」を観に行ってきました。美術展に行くのもずいぶん久しぶりです。もっとも美術方面についてはロクに勉強をしたことがないので、なんとなく観るだけではありますが。まあそんなわけでいつものようなテキトーっぷりで感じたことなどを書いてみましょう。



印象派といえば、輪郭がはっきりせず、点描によって様々な色が組み合わされていく、ちょっとぼやっとした感じの絵が思い浮かびます。Wikipediaクロード・モネの項を見ると、印象派という名の由来は、彼が1873年に描いた『印象、日の出』にあるらしい。印象派の項もあわせて読むと、当時はちょうど写真の普及期でもあったようで、特に肖像画の衰退が著しかったものと想像されます。
おそらく、それまでの写実主義的な絵画の土台が大きく揺らいでいたことでしょう。それは長じて絵画の存在意義そのものを問うようになっていったに違いない。なにせ正確な描写であれば写真には到底敵わないんですから。じゃあ、絵画っては一体なんのためにあるんんだろう?絵画とはどうあるべきものなのだろう?
そんな中で画家達は、絵画の表現手法のあり方について様々な模索を行ったことでしょう。そこに画材道具の発達や、パリ万博に端を欲するジャポニスムの影響など、色々な要素が絡み合ってひとつのかたちとして現れたのが、あの印象派の手法であると思われます。
具体的な技法についてやはりWikipedia印象派の項から引くと、「光の動き、変化の質感をいかに絵画で表現するかに重きを置いていること」と書かれています。実際、今回の展覧会においても光や階調、色彩に重点が置かれた展示になっており、モネが画家として常にそこを重要視していたことが伺われる。

光というものは移ろい、変わりゆくものです。そしてその移ろいにこそ、我々が感じ入るなにものかが潜んでいるのではないかという気がする。そして、印象派の画家たちは、単純に風景の一瞬を切り取るだけではなく、漂う光の移ろいをも一枚のキャンバスに描き出そうとしたのではないか。そんなふうに考えられます。静止しているはずの絵画でありながら、流れる時間を凝縮させ、閉じこめる試みとも言えるかもしれません。
けれども今回展覧会に足を運んでみて感じたのは、ただ光や色彩そのものだけではありませんでした。それよりはむしろ「空気」と言った方が近い。雰囲気といってもよいかもしれません。光も空気も、移ろいゆくものという意味では同じですけれども、やはり決定的に異なる部分があるんですね。それはなにか。
それを端的に感じたのが、ポスターにも使われている「日傘の女」でした。

この「日傘の女」、鮮やかな色彩によって、ぱっと目を引く絵であることは確かです。今回の展示では会場に入るとすぐ目にすることができるのですが、実際なかなかの人だかりができていました。それだけ魅力的な絵だということなのでしょう。
じゃあせっかくだから細かいところも観てみよう、じりじり順番待ちをしながら最前列にたどり着きます。日傘によって作り出される影が白いドレスの上で織りなす色調。一見荒々しくタッチでありながらも、さやかに吹く風を感じさせる草花。なだらかな陰影を帯びた雲と、透きとおらんばかりの青空とのコントラスト。そして優雅な物腰でこちらに視線を投げかけてくる女性の姿。いずれも充分感嘆に値するものだと思われます。なるほど。
ではこんどは少し距離をおいて眺めてみることにします。するとどうなるか。先にあげた技法的な部分は捉えられなくなってしまうのですね。大体どういうタッチかってのはわかるにせよ、絵筆の毛の一本一本の流れのようなものはさすがに見えなくなる。
けれども、だからといって先程のような感嘆がなくなってしまうのかというとそれはまったく逆です。ポイントごとの細かな部分は紛れてしまうけれども、その替わりにまったく別のものが浮かび上がってくる。先にあげたすべての要素が渾然一体となり作り上げられるもの。陽光のぬくもりや吹く風のさわやかさ。草花のさざめき。それらが眼前の一幅の絵から感じられるかのような感覚とでも言えばいいんでしょうか。光だけでもなく、色彩だけでもない。それら個々の要素がすべてが溶け合うことによって醸し出されるもの。
それこそがまさしく「空気」であると、私には思われました。

確かに、現実の風景は種々の要素が渾然一体となってできあがるものです。さらに我々がいかに視覚情報に頼っているのかを考えれば、そこに依拠する要素を多く詰め込むことによって、あたかもそこに世界が存在するかのような絵を描くことは不可能ではないのかもしれない。
そうはいっても実際にそのような絵を目の当たりにしてしまうと、これは驚くべきことだという以外のなにものでもないことを思い知らされます。目の前にあるとはいえ、それほど大きいわけでもない一枚のキャンバスから、今自分がいるところとはまったく違う場所の空気を感じとることができる。即物的な物言いをすれば、そこにあるのは単なる平面の上に配置された絵の具のカタマリにすぎません。けれども確かに空気を感じる。空間というだけでもまだ足りない、全く別の世界を垣間見ているような感覚に陥るのです。
これが写真というテクノロジーに押され、存在意義さえも脅かされていた画家たちがたどり着いたひとつの答えなんだろうか。そんなことを考えます。
してみると「印象」というのは言い得て妙な言葉です。印象というのもどこか漠としてとらえどころがありませんが、我々は確かにそれを感じ取ることができる。これもまた、その場での諸々の要素が入り交じって作り上げられていくものなのでしょう。だとすればここで私が使った「空気」という言葉も、実のところはほとんど同じ意味です。そうかー、なんで「印象派」っていうのか、ようやくわかった気がするよ。

面白いのは本来目に見えたものを写し取ることが第一であった絵画が、写真というテクノロジーに脅かされた結果、空気という目に見えないものを描くようになっていったということです。ここで起こっているのは価値観の大転換であるといってもいいでしょう。同じことは他の様々な分野でも起こってきたし、おそらくはこれからも起こり続けるのではないかな、という気がします。
とまれ絵画の世界に話をもどすと、印象派の試みは広く世に知れ渡り、やがてキュビズムシュルレアリスムのような抽象画の世界へと進んでいきます。より深く対象に踏み込み、内面を暴き出し、場合によっては世界そのものを解体・再構築させようとする試みにすら至るわけですね。これらはいずれも目には見えないものを描こうとする試みであって、そういう意味では印象派が目に見えない空気・雰囲気を描いたのと同じということになる。現代絵画ってなんだかワケがわからんよなあ、と私も思いますけど、それらは決して過去の歴史から無関係に唐突に立ち現れたものではないんですね。

えーと、はじめにも書きましたが、私は美術に関してはまともに勉強したことが全然ありません。なので、これはあくまでも私が勝手に考えたことであって、読む人が読んだら噴飯モノの話な可能性があるってことはお断りしておいた方がいいでしょう。ただ、私にとってはこういう説明が一番わかりやすいし(なんせ自分で考えたんだから)、まあ仮に誤解だとしてもそれはそれでいいやというところですね。
というわけで私にとってのモネ展ってのは考えるきっかけになる、なかなか面白い体験でした。もちろん他にもよい作品はありますし、眺めているだけでもどこかほっとすることができるのが印象派の絵のいいところです。会期は7月2日(月)までだそうなので、時間のあるときにでも行ってみてはいかがでしょう。国立新美術館は今年1月に開館したばっかりですから、話のタネにもよいのでは。
ちなみにモネ展は大人1,500円。
ま、そんなにひどく高いってわけでもないですよね。