「ルールを決める人」は「現場」を知らねばならんと思う

糸井重里が面白いのは、理屈じゃないところで共感できる話をするところなんじゃないかと思います。で、理屈じゃないところってどこかといってパっと思い浮かぶのは私の場合「感情」なんですけど、この場合はそれもちょっと違う。おそらく「普通の感覚」というものなんじゃないかと思うんですがどうでしょうね。なんかちょっとわかりにくいですけど、まあ色々な人の持っている感覚のど真ん中にいる感じってんでしょうか。最大公約数、みたいな話。


糸井 もちろんルールは大事なんですよ、絶対。けれども、ルールはあとからできたものですし、ある意味でバーチャルなものなんだから、現実に適用するときは濃くしたり薄くしたりしてもいいんじゃないでしょうか。「公」「私」の間は白と黒じゃなくて、グラデーションじゃないでしょうか。きっちりふたつに分けることなんかできない。
というわけで、公私混同、なんです。

ってのが「ご機嫌な人を見ると、不機嫌になる社会」の末尾に書いてあります。あーそうだねーグラデーション重要だよねー。でもこれは運用レベルの話だから、「ルール」をどう決めるかについてもなんか書けるんじゃないかなー、と思いました。で、ぐちゃぐちゃ書いてみたですがどうにもうまくまとまらなかったので今回はパスすることに。うーん。
えーと、まず人間ってのは過ちも犯すし、感情に流されたりもして結構いい加減なものだよねって前提で始めようと思ったのでした。でもってルールってのはそんな人たちが集まって形成される社会を円滑に回していくためのツールなんだよね、実のところはそれだけだよね、と展開させ、だからルールを決めるときにはそれを折り込んでいかなきゃいかんですよねとまとめてゆくという算段だったのです。でも、最後にそれを具体的にどう実現していくのかってところで脳みそが悲鳴を上げました。お手上げ。終わりダメならすべてダメってことでお蔵入りなのでございます。
つーわけでダメなことは判明したので、「あとは頭のよい人が考えてください」で締めようと思いました。紋切り型で安心ですね。
でもさー、よく考えてみたらそれじゃダメなんだよなー。
なんでって、頭のよい人はそうじゃない人のことがよくわからんからダメなんです。彼らだけに任せておくとそうじゃない人にとってツラい世の中ができあがってしまう。それは色々ツラいんですよやっぱり。
だから頭のよい人たちに頭のよくない人たちの意見も届けてやらんといかんのです。でも頭のよくない人は、さっき私が実例を示してしまったように難しいことが考えられない。そこを無理して頭のよい人の土俵に乗ると、大変なことになってしまいます。そして頭のよい人に「ああ、やっぱりこいつらの話は聞くだけムダだな」とか言われてしまうのです。なんたるディスコミュニケーション。とほほほほほ。
というわけで、「頭がよい」という一般的にいって高い位置にいる人こそが率先して低い位置がどんなものなのかを見に来るべきだと思いました。だって大は小を兼ねるって言うじゃない!とりあえず社会のルールを決められるくらい頭のよい人は、その辺の赤字垂れ流しな下請け町工場や崩壊した学校、不作にあえぐ農家、サービス残業にまみれたIT企業、えげつないことになっている病院や看護施設等々、いわゆる「現場」で何年か実地研修をして、色々とツラい人々の境遇を学ぶべきです。戻るべき場所は確保されてるんだから、ちょっとくらいこっちに降りてきてみるといいんだよ!低いところから高い位置にのぼるのはすげー大変、てかほとんど無理なんだし、少しくらいいいじゃないですか。そういう意味での天下りなら全然オッケーつーか大歓迎ですよ。いざ研修を終えてお別れの折には、感動の涙の一粒くらいは流してやってもいいと思うのですがどうか。
あーもうなに言ってんだかわかんなくなってきましたね。でもって至極当たり前のことをエラそうに書いているだけとかいうあたり、救いがないような気がします。このへんでやめとくのがよろしかろう。やっぱりちょっと難しいこと考えるととたんに馬脚が現れるので、しばらく自重しているべきですな。でもってそのことを忘れた頃にまた同じことを繰り返し、やっぱりこいつは経験からさえ学ぶことのできない馬鹿だ、ということをお示ししたいと思います。乞うご期待。そしてお粗末。