表現を志す者は漫画に学べ

「漫画的表現手法」の隆盛

最近、漫画を原作にしたドラマやら映画やらがずいぶん増えたようです。そんなの昔からあったじゃねえかといえばそれまでですが、ここのところずいぶん増えたよなあという印象があるんですね。加えて「少林サッカー」みたいに、明らかに漫画的表現手法を取り入れた作品も見られるようになってきた。
これは一体なんなんでしょうかね。
いや、漫画における方法論が、同じフィクションというくくりの中にあるドラマだとか映画だとか、他のメディアに伝搬していくこと自体はそれほど不思議じゃないんですよ。むろんそれなりのアレンジは必要でしょうけど、方法論としての親和性はきっと高いんだろうと思うのです。
でもそれだけでは漫画的なドラマや映画が増えた理由にはならんような気もする。一時的なブームは巻き起こせても、定着するには他にも必要な要素があるんじゃないか。
かつて「漫画ばっかり読んでるんじゃない」と言われながらも漫画を読み続けた年頃の人々が、いよいよ決定権を持つ地位につくようになった、ってのはありそうな話です。それにしたところで数字が取れなきゃ続かないんでしょうが、にもかかわらずこれだけ漫画的物語が多いってコトは、やっぱりそれなりに当たってる、ウけてるってことなんでしょう。
結局のところ、視聴者層におけるメインストリームもまた、漫画世代が占めるようになったんでしょうね。物語__つまりはフィクションにおけるリアリティの文法が変わったんだろうな、と思います。パラダイムシフト、とまでいうとちと大げさすぎるかもしれませんけど。

「漫画世代」隆盛のワケ

でも、なんでそれが今起こるんでしょう。というか、なぜ以前の世代においてはここまでの隆盛に至らなかったのかってーのが気になるところです。
それは結局のところ、「漫画世代」の人々が、なにゆえに「漫画世代」たりえたのかという問題になるのかな、という気がします。すなわち、「漫画世代」とそうでない人々とはどう違っているのか。
そのためにはまず、「漫画世代」ってのは一体なんなんだ、ってのを考えてみる必要があります。まあ色々言い方はあるんでしょうが、ここでは「漫画的表現手法を、当然のものとして身につけている世代」としてみましょうか。そんなに大きくはずしてはいないと思います。
でもってその世代ってのは、漫画というものが生まれてからしばらく後、それが本当に当たり前のものとして定着した頃に小学生〜高校生くらいの年代だった人のことを指すんじゃないでしょうか。なぜって、「当たり前」の感覚を養うのは、やはりそれなりに若いうちじゃなきゃいかんでしょうからね。まあこれがどの当たりの年代の人たちを指すのかってーとずいぶん難しいんですが、今回は定性的な話に終始してお茶を濁すつもりなので、とりあえずさておくことにします。



で、「漫画世代」の定義を「漫画的表現手法を、当然のものとして身につけている世代」としてみたところで、今度はその中にある「漫画的表現手法」ってなんなのかについて考えてみようかと思います。
ざっくり書いちまいますが、漫画ってのは基本的にデフォルメの世界です。そういってしまうとどうしても絵柄の話になりがちですが、よくよく考えてみるとデフォルメってのはそこだけにとどまらずストーリーやシナリオなどにも及んでるように思われるんですね。
つまり、小説などでは荒唐無稽すぎて受け入れられなかったものが漫画では可能だったんじゃないか、ってことです。未来から来た猫型ロボットとか、ピンチになったら魔球だの必殺技だのが出てくるとか、えーとあとはなんだ、パンチラで鼻血を吹き出すとか、普通は考えられないでしょう。けれども、漫画というメディアにおいては、メディアそのものの新しさの中で、一見突飛なものでも比較的すんなり受け入れられる余地があったんじゃないか。
もちろん、これらも始めはただ大げさなだけという原始的な表現に過ぎなかったのかもしれないです。けれども漫画はそこに留まることなく、新しいメディアにつきものの熱狂の中で、次々と新しい表現を求める読者に応えつつ、急激にブラッシュアップされていったんじゃないか。そして、それはやがて漫画の世界に独特の「漫画的表現手法」として結実していったんじゃないか。そういうふうに考えてみるわけです。

で、そういう新しいものをいち早く取り入れ、どっぷり浸かるのはやっぱり子供たちですね。既存のものとは明らかに異なる表現のあり方に大人たちが眉をひそめるのを尻目に、子供たちはその世界の中を縦横無尽に泳ぎ回る。大人にはわからないけど自分たちにはわかる、これってすごく楽しいことでしょう。そうしているうちにやがて、その存在はごく「当たり前のもの」になっていくわけです。「漫画世代」とそうでない人々、という線引きはそういうふうにしてごく自然な成り行きで生まれていったんじゃないでしょうかね。
余談になりますけど、これって今でいうとケータイ小説なものなのかなあという気がします。私はケータイ小説には抵抗を覚えるタチですが、それをこともなげに受け入れているのはやっぱり若い世代なわけですし。他にもゲームやWWWの存在なんかも、そういうものとして捉えることができるのかもしれません。

さて、ようやく「漫画的表現手法を、当然のものとして身につけている世代」というのがどうして生まれたのかがわかったような気になれました。あとは彼らが成長して、コンテンツを生み出す側、消費する側のメインストリームとなる時代を待てばよいわけです。そして、それがいよいよ現れ出したのが「今」なんだ、と言ってみるといい。
やー、印象論とやっつけ仕事だけを頼りに、ヘロヘロな状態ではありつつもなんとかここまでたどり着きましたね!よかったよかった!一時はどうなることかと思ったよ!

表現を志す者は漫画に学べ

んー、しかし冷静に考えてみると、だからなんなんだって話ですな。単にだらだら長いだけで、的を射てるんだかはずれてるんだかもよくわからん現状分析って感じです。まあ自己満足はできましたけど、毒にも薬にもならねえっつーか、暇つぶしとしてもどうなんだそれは、とかいう。読まされる方にとってはたまりませんな。それでも一応文章としての形作りってことで、今後どうなるんだろうかってところも考えてみることにします。
うーん、なんか別にどうもならんのじゃないかなあ。つーか漫画的表現手法が他のメディアに影響を及ぼすって流れは、今さらなくなったりしないでしょ。
あれまあ。さすがにこれじゃ面白くないにもほどがあるんで、なんとか明るい展望を語ろうと試みます。えー、そうやって漫画的表現手法を取り入れていった各々のメディアにおいて、それを触媒にした新しい表現ってものが現れてくる可能性はあるでしょうね。それがどういうものなのかはわかりませんけど、その上でさらに相互作用みたいなことが起こるとずいぶん面白いことになりそうです。まさに正のフィードバック。世界がどんどん変わっていきますよ!……ってまあ、そこまではいかなくとも、新しい表現が出てくるかも、って考えてみるだけで未来が少し楽しみになってくれるんじゃないでしょうかね。



漫画ってのは比較的新しいメディアだったんで、これまでは他のメディアから表現手法を取り入れていく部分が多かったと思うんです。いわば子供が周りにあるものをとにかく吸収していくような感じで。
それは時として周りの大人たちからの冷笑に晒されたり、あるいは露骨な敵視も浴びたりしたんでしょう。学校に漫画持ち込んだら没収なんてヒドい!てゆーか後でちゃんと返せ!……げふん。けれども、そんな扱いを受けながらも表現手法を切磋琢磨し続けることによって、漫画はいつしか世界からも注目されるくらいの存在になっちゃったんですね。MANGAは世界の共通語!
そしていよいよその影響力を大人たち__つまりは既存のメディアにまで及ぼすようになってきた。それはまさしくメディアとしての自立を意味するわけで、まったく大したことだと思うわけです。サブカルチャーからカルチャーへの変化ってのが、今まさに起こってるんじゃないか。
そういや最近は漫画みたいなフキダシのついたポスターとか、そんなのも見かけますな。これもまたひとつの類例になるのかもしれません。ある意味閉じた世界の中での探求が続いたせいか、漫画的表現手法というのは他のメディアからしてみれば一種独特であり、それゆえにインパクトが強いわけです。いわば表現におけるガラパゴス諸島。してみると今後の表現のあり方においては、漫画的手法をどうやって取り入れるかがキーポイントになったりするのかも。えーとつまりあれだ、これから表現を志すんであれば、漫画に学ぶようにするといいと思うよ!

あー、ありきたりではあるけれども、なんか気宇壮大な感じになってまいりましたね。このへんを結論にしておくとソレっぽくていいかも。
ってことで本日の駄文はここまで。お疲れさまでした