エレベータに我先に乗ろうとする輩は人間のクズらしい

今借りているアパートは2年半前に建てられたんですが、先日部屋の掃除をしていたらエラい古い雑誌を見つけました。雑誌の名前は「Gizza 〜議座〜」ってなにやらハイカラですな。大正38年の12月号(通刊7号)なんだそうです。そこになんつーか、面白い記事が載っていたので抜粋してみることに。著者は木森林木権蔵乃介、98歳団体職員だそうです。大正38年といえば1949年ですから、もう50年以上前ってことで、著作権的にもまあお目こぼしいただけるかなと思うのですが。

エレベータに我先に乗らんとする輩は人間のクズである

エレベータなるものは非常に限られた狭小なスペースしかもたぬ場所です。一言でいえばとても狭い。それは外の世界として区別されるエレベータホールに比較してもごくごく狭いところであると申せます。
しかるにその狭小な場所に、「乗る人が先」というルールを仮に適用するといかなることが起こるか。
エレベータ内の人口密度は瞬間的に増大し、さてその後に降りるべき人々がいざ降りんとしたところで脱出のためのルートをなかなか見つけられずに難儀するハメに陥ります。「すいません」などと蚊の鳴きそうな声を上げつつ、辛うじて降りきる頃にはどうしたことか出入口付近の乗客が何名かエレベータから一旦外に出てルートを確保していたりする。本末転倒と称すべき光景と言えましょう。
一方これを一般的なマナーとしていわれるところの「降りる人が先」とするといかがか。賢明なる読者諸氏にはさほどの思考を要することでもありますまいが、かようなことは起こりえないことが推察されるわけです。まず降りるべき人が降りたところでエレベータ内の人口密度は減少し、多少なりとも余裕のできたスペースに新たに乗り込む人々は自らの居場所を見出しやすくなる。乗り込み作業が終了した後に降りようとする人もいないことから、先のようにルートを求めて難渋する人も発生しないということになりましょう。
すなわち通常はマナーとして捉えられる「降りる人が先」方式には、スムーズなる乗降を可能とせんがため、という合理的な理由があることになる。
長々と書いて参りましたが、かようなことは現代市民にとってはもはや幼少の頃より身につけられたる常識として作用していることであろうかと推察されます。またこの事例より導き出されるのは、仮にどれだけ急を要しており「早く乗らねばならぬ」という意識のはたらきかけがあろうとも、一時ぐっとその欲求を抑えつけ降りる人々を優先させることにより、結果としてストレスなくエレベータに乗り込むことができるのであり、かつ混乱も生じることなくエレベータの運行が可能になるということ、すなわち全体のためには一時自らの利を脇にのけることこそが円滑なる社会生活を営むための縁(よすが)となろうということであります。
しかるにエレベータホールにてエレベータの扉の真ん前にて待つ輩とは一体なんなのであるか。今や遅しと待つばかりのみか、今にも自らの確保した扉の目の前というポジションを掠め取らんとする者がおるかのごとくに威嚇めいた視線をあたりにまき散らす。あまつさえ扉が開いた瞬間に是も非もなきがごとくの勢いをもってエレベータに乗り込もうとするその有様はもはや憤りを通り越して呆れをすら感じさせるものであります。
彼らこそが自らの功利のみを追求し、他人の要求は排斥せらるにのみたるものであるという意志の持ち主であることは明らかであります。他人を忖度すること能わず、ひいては自分さえ良ければ多少の社会的損失などは顧みない不遜な輩。蛇蝎の如きとする形容すら蛇蝎に対しては不本意であろうとさえ思わせる者ども。それが彼らであるのです。
彼らこそは現代社会に巣くう癌であり、その存在がために無辜なる市民がいかにギスギスせらるかを思えば百害あって一利無し、存在するだけ害悪をなすゴミ屑のような人間であることは論を待たぬところでありましょう。まさしく人間のクズ、社会生活不適合者と呼ぶに相応であり、一刻も早く山奥に籠もり誰とも接することのない隠遁生活をもってそのくだらぬ一生を孤独の牢獄の内に捕囚さるべきなのであります。
いやそれですら足りぬ、島流しにすべしという意見もございましょう、潮満つる浜辺に首だけ出して埋めるがよかろうとも申せましょうが、いかなる報いをもってその非人道的態度に望むかはまた別の話でありまして、本論の目指すところはかの下郎どものその下郎である所以を明らかにせんとするところにあるのであります。従ってかようなご意見はむろん拝聴に値するものであると申し上げつつ、同時にかかる意見の出るをもって拙稿のなさんとするところは果たされたと捉え、一旦筆を置くのが適当であろうと愚考するものであります。
なお、本論はエレベータにおける例をもって展開されたものでありますが、申し上げるまでもなく、地下鉄、電車、バスなど他の場面においても適応可能であり、すなわち普遍性をこそ有しているものであることを申し添えたく存じます。

(木森林木権蔵乃介)

昔の人は当たり前のことを実にエラそうに言うもんだなあ、と思いました。また面白い記事を見つけたらご紹介します。