「鏡の法則」感想文 〜ヘタであることを求められる文章

鏡の法則」ははてなブックマーク500以上のユーザーがブックマークする人気コンテンツらしいです。たまには流行モノにも乗ってみるか、と思って私も読んでみたのですが、気がつけばどうやらもう完全に乗り遅れているような気がすごくする。正直かなりがっかりです。
で、がっかりついでにさらに言ってしまえば、実は最後まで読むことができませんでした。もうダメだ。いやそのアレですよ、正直どうでもいいというか、ヘタくさいストーリーテリングだなあとしか感じなかったのですよ。ただ、これを読んで感動した人がいることもまた事実らしいですし、それはそれでよいのではないか、とは思います。最終的に100万円の壺を買わされたりするわけでもなし、目くじら立てる筋合いのものじゃないでしょう。
なんのフォローにもなってないような気がするのは気のせいです。
ただ、この種の文章ってのはある種の試金石になってるんじゃないかなあ、と思ったのでそのことをちょっと書き留めておこうと思いました。以下そのことについてだらだらと書きますが、まあなんと言いますか、素直に感動できなくなってしまったヒネクレ者の戯言にすぎないような気もします。つまりは相変わらずのヨタ話ってやつですね。



私が「鏡の法則」に感動しなかった直接的な原因ってのは、全然感情移入できなかったというところにあろうかと思います。なんでかっつーと私の今の境遇は登場人物の誰にも似てないから。私は結婚していないので子供もいませんし、存在しない我が子がいじめられたりするわけがない。両親に対して含むところもありませんし、ついでに言えば心理学にもあまり興味ないです。
だとすると、この話に感動するにはとてもハイレベルな想像力が必要になるんですよねー。残念ながらというかなんというか、私にはそこまでの想像力の持ち合わせはなかったです。
しかしなぜそんなハイレベルな想像力が必要になってしまうんでしょうか。
端的にいうと、それは「鏡の法則」がとてもヘタな文章だからです。
つってもなんか漠然としててアレなんですが、ここでヘタ、というのはつまるところストーリーテリングに関することです。たとえば展開がご都合主義だとか、会話が嘘くさいだとか、理由は色々ありますが、結局のところこの文章は完膚無きまでにストーリーテリングがヘタだと思うのです。だからこの物語のシチュエーションに思い当たるフシがない人、つまり私は、登場人物の誰に肩入れすることもできないし、その結果として全然感動することができない。その結果つまんなくなって途中で読むのをやめちゃいました、ってことになる。
とはいえ私だって素晴らしい小説を読んで感動することはあるわけです。ややもすると「鏡の法則」よりもよほど荒唐無稽な物語であってさえ、ページを繰るてももどかしく、読み終えたあとには心にじわりと染み込むものを感じる経験を味わうことがある。同じ日本語で書かれた文章だというのに、なんたる格差でしょうか。しかし、この差ってのは一体なんによってしょうじているのか?
それこそが物語へ読者へ引き込む力__ストーリーテリングという技術なんだと思うのです。

ちょっと簡単な実例を示してみましょう。たとえば下の文章なんかどうでしょうか。読んでみて、どれだけ引き込まれるでしょうか。

妊婦ら四人を殺害した兇悪粗暴な男ウォートンは死刑囚舎房にやってくるなり看守のひとりを殺しかけた。看守主任を務めるポールは、その日持病の尿路感染症が悪化し、激痛に苦しんでいたのだが、なんとか騒ぎを鎮めた。その後、いつもおとなしい大男の死刑囚コーフィが、なぜか懇願するようにポールを独居房内に呼び入れ、下腹部に手を触れてきた。そして次の瞬間、奇跡が起きた…。

これを読んで手に汗握る、とか早く続きが読みたい!とか思う人がどれだけいるでしょうか。まああまりに有名な作品なんでわかる人にはわかっちゃったでしょうが、これはスティーブン・キングの「グリーン・マイル(3)」のAmazonでの紹介文を引っ張ってきたモノです。あらすじを読んだだけじゃ、面白くもなんともないと思うんですけど、いかがでしょう。
実際にグリーン・マイルに登場する人物のような経験をしたことがある人ってのも、まあまずいないでしょう。にもかかわらず、実際にこの本を読んでみるとどうか。ついつい物語に引き込まれてしまう。手に汗握り、早く次が読みたいと思ってしまう。私がこの本を読んだのはもう随分前ですが、ついつい夜を徹して次の日エラい目にあったのを覚えています。
共感なんてまずできないはずのストーリーにも読者をぐいぐい引き込んでしまう__それこそがストーリーテリングの技術というやつです。もちろんその効果のほどは読者によりけりではありますが、読者を引き込む力ということでいえば「グリーン・マイル」は「鏡の法則」よりもずいぶん強い力を持っていると言えるでしょう。
というか、そもそも「鏡の法則」はそのぎこちない文体によって、ストーリーテリングによる効果がまったく得られないつくりになっているのです。なぜか?対立と和解、立ちはだかる困難を乗り越えることによる喜びなど、やろうと思えばもっと多くの人を感動させられるだけの下地はあるはずなのに。



と、そこまで考えたところで、ふと思いつきました。
もしかすると「ヘタであること」に意味があるんじゃないか?
つまり「鏡の法則」という文章は、不特定多数の人を感動させるための物語ではないのです。だとすればいったい何なのか。私はこの物語は同じような境遇にある人をピックアップするための一種のフィルタ__リトマス試験紙なのではないかと考えます。ピックアップされる人は、家族や両親のような身近な人たちとの間に、なんらかのしこりがある人、ということかもしれないし、自分の子供がいじめにあっているということかもしれない。それを見分けるための反応が感動したか否か、ということです。
そのような人たちをフィルタリングするのが目的なのだとすれば、ストーリーテリングの効果によって、まったく関係のない境遇の人が感動してしまうのは単なるノイズでしかありません。であればこそ、フィルタリングの精度を高めるために、ストーリーテリングに関しては意図的に稚拙であるように書かれているのではないか。
つまるところ、「鏡の法則」は稚拙であるべくして稚拙であるわけです。そこでストーリーテリングという要素はフィルタリングという目的を果たすためには邪魔なのであり、邪魔であるが故に必然的に排除されている。その結果、感動できる人はものすごく感動するし、できない人は「なんだコレ?」程度の感想しか抱けないというつくりになっているのではないか。
そう考えてみると、いくつかのサイトで自己啓発本等と比較されているというのも頷ける話です。あの手の話も徹底的に必要な要素を伝えるために簡素化された結果、読んだ人の感想はかなり極端に二分化される傾向があるものです。単なる例文にすぎないのだから、そこに心躍らせるストーリーなんてものは必要ない。従って必要な人にとってはもの凄く役に立つけれども、そうでない人にとっては単なる時間の無駄ということになる。ある意味、受験参考書や就職活動のためのハウツー本と同じような性質だといえるのかもしれません。

だとすると、最初に私が抱いた「ヘタくさいストーリーテリングだなあ」というのは一見批判しているようでいて実は完全に作者の思惑通りの反応だってことになります。あーなにも感じませんでしたかー。じゃあしょうがないですねさよならー、ってなもんです。またの機会があればそのときによろしくお願いしまーすくらいのお言葉は頂戴できるかもしれませんが、うーん、なんだか残念な気もしないではありません。自分が全然必要とされる人間ではないと気付くのは、どんな場合であれイヤなもんです。
しかし、だからといって「『鏡の法則』は一種のフィルターだから気を付けろ!」とか言う気もあんまりしないんですけどね。いや、逆恨みカッコ悪いとか言うんじゃありません。これまた冒頭に書きましたけど、最後に100万円の壺を勧められるわけでもなし、それだったら「いい話だった!感動した!」でいいんじゃないのってことです。中途半端に古いネタですいません。
それよりも個人的には「意図的にヘタな文章を書くことがある」ってのが面白いなあと思ったのであります。目的によって文章の書き方が変わる、というのはごく当たり前のことですけれども、「ヘタな文章」が求められることがあるってのはちょっと盲点だったなあ。そういう意味ではこの文章はフィルターとしては素晴らしく高性能な文章なのかもしれません。一度どれくらいの精度だったのか聞いてみたいくらいです。

羽生喜治インタビューの感想文

羽生さんのお名前はネット上でもちらほら見かけるように思います。梅田望夫さんとの親交があるためかもしれませんが、もちろんそれだけではなく、その言葉に深い含蓄を感じさせるからではないかな、という気がしているのですがどうでしょうか。
そういった意味でこのインタビュー記事も面白く読ませて頂いたのですが、個々のエピソードはさておき、全体的には今までネット上で読んだ話と大体同じかな、と感じました。インターネットという「高速道路」に関する話は、梅田望夫さんの「英語で読むITトレンドの2004年12月6日にある「インターネットの普及がもたらした学習の高速道路と大渋滞」で読んだのが最初でしたが、論旨はほとんど変わらないようです。記事自体はもう1年半以上前のものですが、それが今でも通用するところが凄い、と思いはするものの、目新しさはないよなあ、と。
ついでに言ってしまうと、インタビュー内での「Web2.0」という言葉の使い方もやや唐突というか、なんだかちょっと木に竹を接いだように感じてしまいました。もっともWeb2.0ってのがそもそもインタビューのテーマだったんでしょうから、そういう話題にシフトしていくのはいいんです。いいんですが、将棋の話題からWebに関する話題への展開がなんだか唐突じゃなかろうか、という気がする。
そういう意味では「Web2.0」という言葉をテーマにするのってなかなか難しいのかも、とも思いました。今さら言葉の定義云々について話をする気もしませんが、「なんだか漠然としてるけど新しいモノ」という以上に「Web2.0ってこういうモノだ!」という以上のコンセンサスは存在していないように私は思ってます。さらに言えばそんなコンセンサスが形成されるのかどうかすらわからないくらいに、Web2.0ってのは広範な概念になっちまっているような気もする。悪し様にいうと、なんでもかんでも詰め込みすぎだ。
というわけで記事全体を通して一体なにが聞きたかったんだろうってのがちょっとわかりにくいインタビューだなあと思ってしまいました。これがたとえばコミュニケーションだとか、集団知だとかに焦点を絞れていればもっと面白くなったのかもしれない。まあ深く狭く、よりは広く浅く、というコンセプトだったのかもわかりませんけどね。それならこういうインタビューになるのもわからないではない。東洋経済という雑誌の性格を考えれば、Web2.0のほうがキャッチーなのかもしれませんし。



というように捉えてみると、今回のインタビューでは広く浅くであったがゆえに、かえって羽生さんがもっとも意識している話が出てきたのかも、と思います。それが出ているのが以下に引用するあたりなのかなあ、ということでバラバラ行きます。

 時間をたくさん費やして考えるのも大事なことですが、それをどこに費やすかもすごく大事ですね。

 たくさんある中で、本当の真贋を見分ける。
――信頼できる人を見抜く心眼ということですか。
 逆に言うと、そういうのが見抜ける人は重宝がられるでしょうね。

――続けられること自体が才能ということですね。
 そうです。つまり、環境が一緒になると最後はそういうことになる。
――高速道路は差別化にならないわけですね。
 そうですね。その点はある程度やる気があって、一生懸命やっている人たちであれば、必ず通ってくるわけですから。
――生の人間としての精神力とか意欲とか、才能が全部さらけ出される怖い世界ですね。
 そうなんです。だから、そういうのがいいのかと思うときはあるのですが、もうそうなりつつあるということなので。

ここで語られているのはいかにして情報の取捨選択をするかという話であり、持続する熱意というものの重要性です。そこで思うのは、それってたとえば集団知ロングテール、密接なコミュニケーションなどによって語られるWeb2.0というモノとはあまり関係ないんじゃなかろうか?ってことですね。Web2.0なんて曖昧ですよへへん、とか言った舌の根も乾かないうちによくもまあ、と我ながら呆れます。でもやっぱりこの記事を「Web2.0でござい」って言われるとなんか違うんだよなーって気がするのですよ。
持続する意志、というのはともかくとして、情報の取捨選択の重要性ってのはむしろインターネットそのものの特徴だろうという気がします。そういう意味で羽生さんの話ってのはインターネット的ではあってもWeb2.0的ではないような気がする。つってもまあ、Web2.0という概念はしょせんインターネットという概念に包含されるものでしかないのですが。
この情報の取捨選択の重要性って話は、実のところ古くて新しい話です。語り口は違っても、同じような話はこれまでも幾度と無く繰り返されてきている。インターネットの普及によって我々が手に入れられる情報の量は爆発的に増えましたし、Googleの登場などによってその量は指数関数的な増加を続けている。伸びはいつかどこかで鈍るかもしれませんが、減ることはおそらくないでしょう。そして一人の人間がそれを網羅することは不可能だという事実が覆ることもないはずです。その上で我々はそれに対するうまいやり方をまだ見つけられてはいない。
個人的に羽生さんが凄いよなあ、と思うのは将棋の話題をしている中にも、それにとどまらない普遍的な要素を感じさせるような語り方ができるところにあります。上に引用した文章でも、そこだけ読んでみると将棋だけではなくてもっと他の話題であっても通用しそうな趣がある。「インターネットの普及がもたらした学習の高速道路と大渋滞」という話__あるいはその語り方もまさしくその好例のようなもので、聞くたびごと色々と考える契機になります。
将棋というのは情報が非常に大きなウェイトを占める世界であるという意味において、Webなどの情報産業に近いところがあるようです。その世界の中で、登場以来常に第一人者であり続けた人の感受性の鋭さ、先見性はやはり凄いものがあると思わざるを得ない。そんなことを改めて考えてみたりしました。
でも、そろそろ別の切り口から羽生さんの話を聞いてみたい気もするなあ。