Departure

1月31日。私は東京で行われる研修を受講するために新千歳空港から東京へと向かうことになっていた。その時の話である。

回数券を空港のカウンターに出し、私はさも旅なれた風を装ってロビーをぐるりと見渡した。
 今日もここには彼方の地へと向かう人たちが群れをなして集ってきている。顎を少し上げ、見下ろすような視線を投げかけてみる。うむ、これはなかなかいいんじゃないだろうか。そうこれだよこれ。どことなく漂うアンニュイな雰囲気。くううしびれるねえいいじゃんいいじゃん、いかにも「俺は世界を股にかけてるぜ」って感じ。見る人が見ればわかってくれるはずのこの違い。そうともさ、パスポートは10年モノに決まってるのさ。
「通路側のお席になりますが、よろしいですか?」
 あ、いいですいいですそれで全然構いません。いや、ホントは窓際の方がいいんだけど。え〜とほら、なんたって旅慣れた男はすぐに席を立てる通路側の席を選ぶものなのさ。俺には一秒たりとも無駄な時間はないのさBaby。むふふどうだいニヒルでハードボイルドでアンビリーバブルなこの台詞。おぜうさんおいらは旅から旅へと流れ行く孤独な男。ホれるんじゃねえぜ。いやいや捨てないで捨てないで、私一生あなたについていくわ。ふっ、しょうがねえなあおぜうさん。ああまるで映画のようではないか。今日はロンドン明日はLA、ついでに明後日は遠くロシアのはずれの地、ペトロパブロフスクカムチャツキーときたもんだ。さあ出発ゲートへ急ごう。世界が二人を待ってるぜ。
 国内線のカウンターで何を気取っているのであるか。パスポートさえ持っていないくせに、ねえ。

実のところ、私が飛行機を普通に利用するようになったのはここ1年くらいのものである。しかもほとんど仕事がらみ。一番最初に飛行機に乗ったのは物心つく前だったという話なのだが、物心ついていない頃の話など覚えているわけもない。よって割愛。でもって2度目は小学校4年生くらいの話なのだが、この時も実は物心ついていなかったので覚えていない。本当だ。本当に物心ついていなかったんだってば。ええい「忘れた」なんて恥ずかしくて言えるわけがないだろうが。
 まあよい。ともあれ、私という輩は飛行機に乗った記憶もないまま22の春を迎えたわけなのだ。ああ失われた時よいずこ。それを求めて旅にでも出れば気分はすっかりプルーストであるが、旅に出るには金がいるというのが浮世の習いなのでそれもできない。俺の青春を返せ。というわけで、私が覚えている最古のフライトというのは社会人になって2日目だか3日目だかの初任者研修で東京に行った時、ということになる。う〜む、2階の席だったのは覚えているんだがなあ。え〜となんだったっけ、妙に天井が低かったなあとか、離陸のときは緊張したよなあとか、隣に座ってるのは男かチクショウめとかいったことしか思い浮かばないぞ。一体私の記憶回路はどうなっておるのだ。せめて機内トイレの場所くらい覚えておけば、今ごろ「バカでも行ける飛行機のトイレ」という本をしたためて一躍文壇の寵児になっていたであろうに。思えば惜しいことをしたものである。

……追憶にふけっているといつの間にやらチェックインが終わったらしい。カウンターの向こうでキレイなお姉さんが笑顔でこちらを見ている。まさかこのアンニュイな横顔にホの字か?我ながら考えることが古臭い。まあ手続きも終わったというのにいつまでもカウンターの前に佇んでいるというのもなんだ。後ろの客には迷惑だし、第一一人佇む男の哀愁も度が過ぎるとバカみたいである。やはりここはすちゃっと華麗に立ち去るのが王道といえるだろう。うんうん。すちゃっ。
「あっ、お客様っ」
 なんじゃい。え?チケットを忘れてる?ぐぎょ。そ、そうか、回数券で手続きをしてもチケットのようなものはもらえるのだね。それは知らなかった。いや、いかに旅慣れているとはいえ私も人の子。知らないこともあるものなのだよお姉さん。ははは搭乗手続きってのも実に奥が深いもんだねえ。やあどうもありがとう。縁があったらまた会いましょうあはははは。うう恥ずかしい。こんな恥ずかしい思いをしたのはこの間凍った道路でスっ転んで以来だ。とほほほ。
 異常なまでの早足で私がその場を立ち去ったのはもちろん言うまでもない。さあ出発ゲートへ急ぐのだ。手荷物検査がおいらを待っている。

ところで、飛行機が他の乗り物と最も異なる様相を呈するのは、ひとえにこの搭乗手続きというやつがあるがためである。バス、タクシー、鉄道、人力車。手荷物検査などされたことがない。したがって飛行機にご搭乗の際はご出発の15分前までにカウンターにお越し下さいなどという事態が生じるのだが、ある程度の余裕が人生には必要なものなので、いきおい空港につくのは出発の1時間前などということになってしまうことがほとんどである。しかるになぜ搭乗手続きというやつはものの1、2分で終わってしまうのであるか。15分前に来やがれってんならそれなりに詳細な点検をもってして客どもを10分は拘束すべきだろうがっ。ええい納得がいかん。あまつさえ金属探知機だと?ナイフを持ち込んじゃいかんというのはわかるが、それなら爪楊枝は持ち込んでいいなどと誰が言えるのであるか。う〜ぬぬぬ。要するに機内に入るまで暇なんだよぅ。どうやって時間をつぶしたらいいって言うのさっ。う〜煙草でも吸うか。

あ〜しかし何かを待っている間に吸う煙草というのは手持ち無沙汰なのもあいまってやたらにペースが速くなってしまう。すぱすぱすぱッ。う〜まだかまだか。あ〜隣のオヤヂったらスポーツ新聞なんか読みやがってウラヤマしい。くっそぅこんなことなら文庫本の1冊くらい手持ちにしておくべきだった。いまやスポーツバッグの底のほうで10日分の衣料に抱きすくめられてるんだもんなあ。あれをひっくり返すとなるとコトだ。しかも登場口でそんなことをやったらまわりの人になんと思われるか。いやだわあの人ったらこんなところで鞄をひっくり返したりして。これだから旅慣れてない人ってのはいやですわねえ奥様オホホホホっ。屈辱である。旅慣れたフリを装う者として、ここで一敗地にまみれるわけには断じていかんッ。そうだこれはプライドの問題であるぞ。耐えろ、耐えるのだしろ●っ。ほらゲートでアテンダントのお姉さんがなにやらやっている。もう少しの辛抱だ。ああ一気に煙草を吸いすぎたせいで酸欠による眩暈が。クラクラ。おおこれは幻聴か?場内放送が聞こえる気がする。そうじゃないっ。これは紛れもない現実だっ。やったぁようやくこれで場面転換ができるぞう。機内誌も読み放題だッ。読んで読んで読みまくるのだ。隅から隅までずずずいっと読みまくるのだっ。おいらの視線は機内誌をも貫くぜ。気分はすっかり意気揚々である。
 ……なぬ?修学旅行生から先に機内にご案内しますだと?
 あんぎゃあ。どうりでさっきからまわりに学生ばっかりいると思ったんだ。考えまい考えまいとしていたがやはりそうなのかっ。ううう旅慣れた男の雰囲気がぁ。しくしく。ええいお前らうるさいっ。高校生なら高校生らしくもう少し……どっちみちうるさいのには変わらないよな。ちくしょう白い恋人by石屋製菓の紙袋なんて下げてるんじゃなぁぁぁい。

というわけで結局私はとぼとぼと出発ゲートをくぐった。えらい先行き不安な旅立ちである。

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