バス

数ある公共交通機関の中で、これほどまでに時刻表があてにならない乗り物というものもそうはないだろうというのがバスだ。交通渋滞にかかれば20分30分遅れてくるのは朝飯前。しかし客は暴動を起こすこともなくじっと耐えるのみ。文句を言うことはあるが、それがバス会社をして「ダイヤを守るためならなみいる普通車を踏んづけても構わない」という決定を下さしめるに到ったという話はついぞ聞いたことがない。思ってみれば不思議な話だ。
 これがもしJRを始めとする鉄道ならどうだろう?なんの連絡もなしに通勤快速が30分遅れであなたの目の前に現れたなら?少なくとも車輛は今ごろぼこぼこのぎたぎたのけちょんけちょんでめったくそな状態になっているに違いない。運転手は数多の人間の恨みつらみと憎しみを買い、身分を隠してゆかなければ日々の暮らしもおぼつかない。いや、それのみならず、鉄道会社に勤めていること自体が、一般常識欠如人種というレッテルを張りつけられるといった結末につながることすらありえよう。社員章は机の引出しの奥深くにしまいこまれ、身分証明書は不携帯のことと会社の約款にも記載されたあげくに法務局を通じて登記される。しこうして社員の姿は我々国民の前から隠蔽せしめられ、車輛のフロントウインドウはマジックミラーになるのだ。そして我々は一体誰が運転しているのかすらわからず、いつ来るとも知れぬ列車を待ちつづけるのだ。夏の暑さにおろおろ歩き、冬の寒さに涙を流しながら我々は、各々がその心の奥底に孤独を抱えながらプラットホームで立ち尽くすのだッ。どうだ恐ろしいだろう。これが飛行機なら、まだ航空管制官の間でノイローゼが横行し、航空事故の件数が指数関数的な上昇を見せるだけで済むのだろうが。いずれにしたってえげつないと言えば言えるかもしれない。ことほどさようにダイヤの遅れというのは反国家的な危険性を内包しているのである。
 だが一体どうした風の吹き回しか、バスに限ってそんなことはない。なぜ?なぜ我々はJRの遅れは許せなくともバスの遅れは許せるのだ。私はいつも利用しているバス会社の電話番号を知らずに過ごしているが、それは異常なことではないのだろうか?もし異常でないとするのなら、我々は一体どうやってクレーマーになればいいと言うだ?このままこういった風が吹き回し続けていれば、いつの日か桶屋が儲かってしまうに違いない。ああよりにもよって桶屋が儲かるなんて。そんなレアな商売が一体今の世にどれほど存在しているか、貴方は考えてみたことがおありだろうか。もう日本経済は終わりだ。

まあそんなことはどうでもよい。ともあれ普段の私はバス通勤なのだから、今日の私もバス通勤であった。停留所でしばらく待ったが、ハナから時刻表は当てにならないという態度を決めこんでいる私はそんなもの全然見ていない。よって今来たバスが果たして正規の時間についたのかどうかはさっぱりである。しかも通勤時間だけあってバスの本数も多く、果たして3分遅れただけなのか17分遅れたのか、それとも実は昨日の今ごろ来るべきバスであったのかもわからない。世の中は謎だらけである。ううむ。
 だが、ここで悩んでいては乗れるものにも乗れぬ。そのせいで大遅刻して誰もいない部屋に職場からの電話がかかってきては大惨事だ。いや、この世の終わりだ。私はえいやとばかりにバスに乗った。しかし乗ったその場所は何と言っても得体の知れぬ怪物の体内。ゆめゆめ油断することはまかりならぬとの心構えは必須だろう。気を引き締めてみる。それに、法外な運賃を請求されることを未然に防ぐために整理券もしゃきっと取る。よし。ポケットの中にはすでに小銭が用意されているな。よしよし。それを一度取り出し、金額に間違いのないこともここで確認する。一度100円玉と50円玉を間違えて運転手に白眼視されたという経験の持ち主である私はことさらしっかりと掌の中にあるものが100円玉であることを確認した。表には桜、裏には100の文字。昭和5×年といえば私の生まれた年ではないかこいつは朝から縁起がいいや。仕上げは万端、あとは仕上げをごろうじるのみ。よぉぉしどっからでもかかってこいってんだ。度重なる雪でガタガタになった路面の影響をモロに受けるサスペンションは気に食わないが、ともあれバスは鼻息も荒い私他たくさんを乗せて走り出した。

しかし、バスに乗る人というのも実に様々なものだ。まずは私と同じようにネクタイをしめたサラリーマンらしき人がいる。同様にいかにもなスーツを着込んだ女性もおそらくこれから職場へ向かうに違いない。まったくもってご同慶のいたりである。いやな上司もいるでしょう。変なお客もいるでしょう。ですが我々が頑張らずに誰が頑張るのでありますか。うううお互い頑張りましょうねえ。隣のオっさんはそんな私にはそしらぬ顔で、スポーツ新聞を読みまくっている。そんなにオープン戦の結果が気になるのか?そして定番の高校生。ヤツらは私にとってはとうに過ぎ去ってしまった若かりし日というものを見せつけてくるかの如くに、まったく悩みがなさそうでああ実に結構だねこのクソガキャな話題に興じていた。ふん、所詮そんなのは浮世の荒波にもまれる前のつかの間の夢に過ぎぬのだぞふぬぬぬッ。また鼻息が荒くなる。てめえ、高校生の分際で他の学校のヤツなんかと合コンもどきなんかしてんじゃねえッ。おいらだってまだしたことないんだぞぉぉぉ。う〜う〜。そろそろ期末試験の時期なんだからなっ。せいぜい苦しみやがれッてんだっ。偏見に満ちた上に相当ヒネたものの見方であるが、社会人を1年もやっていれば自然とそうなるものなのだ。だから別に私が最初からヒネヒネしていたわけではない。しかし、いかにも私服の老若男女共は一体なんなのだろうか。まあ若そうなのは大学生ないしは予備校生だとしても、おぢさんおばさんないしはそれよりもあからさまに年上に見える彼らの行く末って?う〜むさっぱりわからん。これから公園を散歩して、半ば凍りついた池で寒中水泳をした挙句にドライアイス付きのアイスクリームでも食うんだろうか。悪いことは言わないからやめておけ。凍死するぞ。それにしてもなんだってあんたらは進行方向に向かって90度すなわち前方を見据えた格好で立つんだ。降りる客が通れないだろうがっ。ああそうかいそうかいそんなに前が気になるのかいっ。私はバス側面の曇りまくった窓を睨みつけている。

しばらくすると高校近くの停留所でごそっと乗客が減り、座る場所ができた。おお今日はツいてるぞ♪二人がけの席で隣が男なのは、気に食わないような、逆に気を使わなくていいようなである。それでもともかく座ることができるのだから、中くらいではあるが基本的にはまあ嬉しいと言ったところか。ともあれ、降りるまでもう少し時間がある。ここしばらく寝不足だし、うひひ、ちょっと目を閉じていようではないか。う〜んしやわせ。
 ……うぎゅ?
 私の安寧はあっという間にかき消された。うわわっ、こ、こいつ。
 隣に座っていた男は、年恰好から見るにおそらく学生であろう。年上か下かは知らんが、雰囲気はそんな感じだ。容姿は可もなく不可もない。憎しみがこみ上げてくるのであまり考えたくはないが、彼女の一人くらいいたところで不思議はないかも知れぬ。ああそれだけなら別に私は彼のことをどう思うということもなかっただろう。だがしかし、コノヤロウ、寝るのは勝手だが俺の方に寄りかかってくるんじゃなああああああい。ぎゃ、うひゃ。バスの揺れに従ってヤロウの体重がおいらの二の腕にっ。ぎゃああああ。ぞわぞわ。うひ〜、早く着け早く着け早く着きやがれこのくされバスっ。赤信号なんか無視して進めっ。そこらの普通車なんぞ踏みつけたって構わんっ。俺が許すから早く進めれっつごーあへっどぉぉぉ。あ、賠償金はもちろんそっち持ちだからそこんとこ誤解しないようにね。うひええええ、これはそんなこと言ってる場合じゃないぞ。どわっ、ぐわっ、うぎょっ。

そんなわけで降車する頃にはすっかり疲れ切ってしまい、朝っぱらからぼろ雑巾であった。ううう、まだあの感触が上腕二等筋のあたりにぃ。およよよ、信号も赤に変わってしまったじゃないか。こんちきしょう、座れるからって今日がツいてる日だなんて思ったおいらが馬鹿だった。人生最悪の日じゃないかぁ。赤信号が感情のまったくこもっていない目で私を見下ろしている。私は世界中の赤信号を叩き壊してやりたくなった。
 う〜、やっぱりバスなんてキライだ。

ちなみにそんな私は地下鉄が大好きである。なぜか?
 寄りかかってきたのが女性だったからに決まってるだろうが。

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