名古屋はタバスコで涙する

名古屋へ個人旅行で行ったことがある。昨年の秋くらいだからもう4〜5ヶ月は経ってしまったのだが、今回はその時の話をしよう。たまには北海道を抜け出して、他の街で新鮮な視点を取り戻してみるのも悪くはない。

ことの起こりはネット上でのおつきあい、ということになろうか。チャットやらなんやらで普段から馬鹿みたいな話を繰り広げていた一団がおり、私もその一員として睡眠時間を削り取っていたのだ。他地域の人と知合える機会などそうそうあるものではないのだから、やはり便利なものである。うきゃきゃだのうけけだの、とても恥ずかしくては人には言えないような笑い声がモニタ上にこだましていたというわけだ。ああ、冷静に考えてみるとあまりの恥ずかしさに鼻血が。

ともあれ一旦意気統合してみると、ネット上の文字のやりとりだけでは満足がいかなくなるというのが人情である。いつしか私はそのメンバーの何人かが住むという、名古屋行きを画策するようになった。名古屋。誰がなんと言おうともなごやである。カタカナで書くとナゴヤであり、ローマ字でつづるとNagoyaだ。一体どのような街なのであろうか。私の想像力は日を追うたびに膨らんでいった。まずは誰がなんと言っても名古屋弁だろう。「〜ai」の発音がかの地では「〜ya-a」になるという。具体的には「エビフライ」ではなくて「エビふりゃ〜」。これだけでもう異国の地という雰囲気が漂い始めるではないか。なにせ「エビふりゃ〜」なのである。嗚呼もうそこまで知ってしまっては私もいっぱしの名古屋通。名古屋が俺を呼んでいる。待っていやがれ今行くぞ。私は北の地に住まいを構える公務員としての特権の一つである寒冷地手当が出るのとほぼ同時に、名古屋行きの手はずを整え始めた。

 と、いうわけで私は名古屋に降り立ってしまったわけである。交通手段は飛行機。なんと贅沢極まりないことだろうかうひひ。今回は国際線仕様の飛行機だとかで快適だったし、フライトアテンダントのおねぃさんもキレイだった。更にうひひ。これなら今回の名古屋旅行も楽しいものになるのに違いない。どういう理屈だかさっぱりわからないが、とりあえず私はそう思った。ああめくるめく旅先のアバンチュール。名古屋の夜はいかように暮れていくのだろうかでへへへ。
 嬉しさのあまり、ちょっとした気違いになってしまったようである。

 空港からバスに乗って名古屋駅へ。まずは建設中の五十何階建てだかのツインタワーにびっくりしてしまう。なになに、下はデパート上はホテル。ふええ。そんなに泊り客がいると考えておるのかやはり名古屋は一味違う。うむうむなにせ「エビフライ」が「エビふりゃ〜」であるからな。なになにオープンは来年。まあがんばってくれたまえよわはは。しかし、駅のコンコースでじっくりと看板を読みふけっているというのもナンだよな。いやまあ旅の恥はかき捨てれば済むことさッ。う〜むしかしなんて広い駅だ。しかもなんだかよくわからないが工事中が多くてわかりにくいなあ。ああ、でもなんでこんなにお空に道路があるのだろう。お父さんお母さん、名古屋のお空は狭いです。故郷のお空がなつかしゅうございます。またお手紙書きますね。
 田舎から出てきた若者ならぬバカ者は、このようにして見ること全てに驚愕を覚えたわけだ。これで更に規模の大きな都会に行くと、彼は一体どうなってしまうのだろう。想像するだに恐ろしいものがある。きっと道端でゴーゴーを踊り出すとか、まあそんなところだろうとは思うが。

 ところで私は天性の方向感覚欠如能力を持っている。まあ早い話が方向オンチで、これまでにも何度か武勇伝を残しているのだが、これが案の定駅近辺で道に迷ってしまった。はて、ここはさっき来たような気がするが。まあ気のせいだろう。おや?あの建物はこれで三回目のお目見えであるな。そうかそうか、私が名古屋に来たのがそんなに嬉しくて何度も出迎えをしてくれるのか律儀なヤツ。2ポイント追加。あれ、この出口はさっきも。うむ、そこのレストランにも見覚えが。ああやっぱり味噌カツ。お土産屋でういろうが売っているのはさっきも確認したような気がするが、はて。おかしいな。初めて来たところのはずなのに、なんでこんなに既視感が?ひょっとしておいらの前世は名古屋人。ういろう味噌カツひつまぶし。あああハラヘッタ。
 朝から口にしたのは新千歳空港でコンビニおにぎり2つきり。それで何度も何度も何度も何度も同じところをぐるぐる廻っていればいくらなんでも腹が減るだろう。昼頃には駅に着いていたというのに、その時点ではすでに午後2時をまわっていたというのがなんともはや。しかし、一体どこに入ったらいいのか迷うな。う〜、どうせどこの店も初めて入るところなのだ。えいっ。私はあまりの空腹感に耐えかねて、そこらの喫茶店に飛び込んだ。

店の名前は「テキサス」だったか「デンバー」だったか「ニューハンプシャー」だったか、記憶は定かでないのだがそんな感じだった。さてなにを食おう。とりあえずコーラははずせまい。いやしかし、あんまりコーラばっかり飲んでちゃ体に毒だよな。バカ者にしては殊勝な思い付きだったが、それで注文したのがジンジャーエールというところがやっぱりバカ者である。私は他にミートソーススパゲティを注文することにした。無難といえば無難だが、なにも名古屋に来てまで食うものでもないような気が少しする。まあひつまぶしやら味噌カツやらは後でも食えるよな。腹は減ったが昼間から食うものでもないような気もするしねふふふ。結果から言えば、紆余曲折があって私はそのどちらも口にすることはなかったのだが。ああ、それがわかってりゃあここで無理して味噌カツを食いに他の店に入ったんだけれどもね。とほほ。

それはともかくとして、ほどなくミートソースは私の目の前にでんと置かれた。といっても別に丼に入った特盛りを注文したわけではなく、単にウエイトレスの態度の問題なのだが。まあ容姿がそれなりであったのでとりあえずそれは不問にしよう。なにせ私は心の広い男だからねはははッ。更に言えば、腹が減っていたのだからそんなことは全然気にせずにとりあえず目の前のスパゲティのみに全精力を没入したと言ったほうがより正しかろう。いっただっきまぁす。ぱく。もぐもぐ。うんウマい。私はどっちかというと味オンチな方なので、けっこう何を食べてもウマいというようなところがあるのだが、これも一つの幸せの形というものなのかもしれない。しかも空腹なのでいつもよりもっとウマい気がする。えへへしやわせ。ああおいしい。もぐもぐ。あれ?でもなんか足りないな。……なんだっけ。そうそうタバスコだよタバスコ。私は右手でタバスコの赤い壜をひっつかむと、おもむろにスパゲティの上に二度三度、四度五度六度七度うりゃああッと振りかけた。ぜいぜい。うむこれでよし、と。あぁ、しかし今朝は早かったからさすがに寝不足だなぁ。ふぁぁごしごしああネムい。しかもその上ハラヘッタ。そんなわけで作業再開っ。がつがつ。ああやっぱり少しピリっとした方がおいしい。ぱくぱく。はっ、そう言えばジンジャーエールが。ごくり。もぐもぐ。むしゃむしゃ。ぷは。ごちそうさまでした、っと。ぐびぐび。

そして食後の後の一服。むふふこれが至福の時だよオコサマにはわかるまいが。と私は近くのテーブルに陣取っている高校生とおぼしき集団に視線を投げた。いくらなんでも高校生に対抗意識を燃やすことはあるまいがといった感はあるが、まあこれも田舎者の性だろう。すちゃっと文庫本なんか取り出しちゃったりしてふふふこれぞストレンジャーってもんだよな。おぜうさんおいらにホれちゃぁいけねえぜ。所詮おいらは旅の男なんだからなッ。札幌でだっていつも同じようなことをしているはずなのだが、さて。

 そんな私がふと顔面に違和感を覚えたのはそれからまもなくのことだった。なぜだかわからないが、妙に右目のあたりがアツい。むむむ、これは一体?ひょっとしたら名古屋という街に対する思いのたけが顔に出たのか?とも思ったがどうやらそうでもないらしい。ひりひり。うう、なんじゃこりゃ。原因不明の顔面発熱である。私は慌てた。もしやこれは治療法すらいまだ確立されていない難病が発症したのではッ?げげげしろ●名古屋の喫茶店で客死。ひええまだ死にたくないよぅ。あ、でも客死ってのはちょっとカッコいいかも。あんぎゃあアツい。うう、目が、目がぁぁ。10の6乗ってそれはメガでうわぁぁぁ。アツさはいつしか耐えられぬほどになり、それは眼球にまで達してしまった。ああ涙が止まらない。うう、イタいイタいイタいってんだろこのやろぉぉ。私はだれかれ構わずブン殴ってやりたい衝動にかられた。こういうのを八つ当たりと言うのだろうが、あいにく一人席なので周りには誰もいない。いきなり立ちあがってウエイトレスをブン殴るという案もないではなかったが、涙はぼろぼろ止まらないので、そんな顔でいきなり見知らぬ人に殴りかかるというのはちょっとドラマチックすぎて困る。わざわざ旅行に来てまで三面記事になど冗談じゃないぞこんチクショウ。うううもう目も開けていられない。ぐぬぬぬ一体どうすりゃいいんだぁ。
 端から見たらさぞ変なヤツに見えたことだろう。だが旅の恥はかき捨てなのである。第一今更私が変なヤツじゃないって言ったところで、誰が信じてくれるって言うのさっ。

とにもかくにも、この目の付近一体を襲うアツさをなんとかしなければならない。もう出てきたものは全部食べてしまったし、いつまでも喫茶店の一角を占領しているわけにもいかないのである。うう、しかしこれは一体どういうことなんだ。名古屋よそんなに俺がキライかッ。そこで私ははたと思い当たった。ひょっとしてこれはタバスコ?よく考えれば、さっきタバスコの壜を引っつかんだ手で目をこすったような気が……。くんくん。私は掌をかざして右手の匂いをかいでみた。すっぱい匂いがする。あうっ、これはまごうことなきタバスコのかほりっ。どえええ俺はタバスコを目に塗ったくってしまったのかぁぁぁぁ。念のためになめてみると、私の手は確かにタバスコの味がした。自分の体がタバスコでできているなどという話は聞いたことがなかったので、これはまさしくさっきのタバスコの壜のせいである。我ながらとんでもないことをしでかしてしまったものだと後悔したところで今更遅い。私の目は今まさにタバスコの侵攻を受けているのだ。このままではいかんッ。客死はともかく、まさかタバスコが原因だなんて三面記事どころの話ではない。週刊誌モノである。なんとかしなければなんとかしなければッ。ごしごしとペーパーおしぼりでこすってみても効果はイマイチ顔面ひりり。水だっ。水で洗い流すのだっ。そんな私の視線の先には水の入っていたコップが。これだぁッ。私は藁にもすがる思いでコップを引き寄せた。ああ、しかし中身は空っぽで氷しか入っていない。ぎゃあああ。

よく考えればウエイトレスに水をくれと言えば済む話である。しかし私はそうしなかった。なぜだろう?恥ずかしかったからかもしれない。しかし右目は相変わらずイタくて開けられないいし、涙はぼろぼろ出る。黙っていても状況は一向に改善しないのだ。さてどうしたものであるか。これだッ。私はすかさずポケットティッシュを取りだし適当に丸めると、かつて水の入っていたコップの中につっこんだ。目指すは氷である。氷だってもともとは水なのだっ。溶かしてティッシュに染み込ませばこれは使えるッ。おいおいちょっと待ってくれよ、と思わず言いたくなってしまう。いくらなんでもそんなことするか?大の男が突然ぎゃあぎゃあうごめき出したかと思うと、次の瞬間には小さなコップの中に手を突っ込んだのだ。その様を見て警察に通報しなかった店員の態度はまさにあっぱれ。大臣表彰モノであろう。私ならすぐさまその男の後頭部にケリをお見舞いしたと思うが、ああ名古屋の皆さんありがとう。しろ●はあなた方のことを決して忘れません。

ともあれ、何度かコップの中に手を突っ込むことによって痛みはようやく和らいだ。やれやれこれで一安心。ふッ、やるなタバスコここまで俺をうろたえさせるとは。まあ、なかなかいい勝負だったよ……。できればもう二度とあいまみえたくはないシチュエーションである。その後そそくさと席を立ち、誰とも目を合わせないようにして会計を済ませ、逃げ出すように店から出たのは言うまでもない。ううむ、楽しいはずの名古屋旅行の出だしがコレか?まったく世の中とはそういうものなのかもしれない。ただ単に私がバカ者なのだという話はさておいていただけると助かるが。

その後は無事にネットでの知合いに会うこともできたし、わははと笑いっぱなしの旅行を過ごすことができた。タバスコを目にぬったくるようなこともなかったし、まあ無事で何よりというところだろうか。しかし、私はいまだにタバスコを見ると目が痛くなってしまうのである。う〜む、これも一種のトラウマなのであろうか。

というわけで、名古屋に行ったらタバスコにはゆめゆめ注意を怠らぬがよろしかろうと思うぞ。いや本当に。

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