探し物は見つけにくし・再び

非常に細かい分野に着目して考えてみると、世の中には二種類の人間がいるということに気がつかされるというのはよくある話だ。寝起きのよしあし、倹約家と浪費家、ロマンチストとリアリスト、自転車に乗れるか否か……など、数え上げていけばきりがない。おそらく世界には数限りない分類の方法があり、その組み合わせ如何によってその人間の性格が現れてくるのだというようにも思われる。寝起きが悪くて倹約家であり、同時にロマンチストであって自転車を操ることはできない……延々と述べていけばそのうちその人間について、ある程度詳しくなることができるはずである。
 これはひとえに、我々が普段からどのような価値判断を行っているかということの実証例のようなものだ。ほとんどの場合において中間層というものは存在せず、単純極まりない二極化によってのみ我々はわかりやすい分析というものを行うことが可能なのだろう。無論、異議はある。面と向かって「あなたは……で……で……な人だ」と決めつけられるような言い方をされて、いい気分がするという人はおそらくあまりいないだろう。十把一からげに判断などしてほしくないというのは、個性を重んじる最近の風潮の中でよく耳にする台詞である。しかし、だからといって二極化による分類法は容易に無くなりはしないだろう。厳密性はともあれ、その利便性についてはおそらく万人がすべからく認めるであろうところなのだから。

ところでその分類法に従い、翻って自らのことを考えてみれば、私は「部屋が汚い」という範疇の人間になる。

汚い部屋の中でなにかを探すということが往々にしてある。たとえばつい最近、久しぶりに村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読んでいたときの話だ。時として依然読んだ本を唐突に再び読んでみたいと思ってしまうことがある。実際にやってみればわかるが、始めてみると以前その本を読んでいたときの状況などが思い起こされてなかなか楽しいものである。事実私も金沢旅行をしながらそれを読んでいたことを思いだし、懐かしさに身を委ねながらも読み進めていくことになった。だが(上)を読んでいるその途中から、私はふとした不安に襲われてしまった。はたして(下)は私が望むときにすぐさま見つかるのだろうか?
 しかし、ある本を読んでいる途中でわざわざ別の作業をすることもないと思い、懸案はしばらくはそのまま捨て置くことにした。それほど薄い本ではないのだから、(上)を読み終わるまでにもまだ何日かはかかるだろうと思っていたのだ。またすぐに月曜日はやってくるし、仕事が始まれば落ちついて本を読む時間などそうそう取れるものではない。本を読み出すにもそれなりの準備作業と言うものが必要であり、平日であればその作業が終わったところですぐに床に入らねば翌日が不安になるような時間になってしまうものなのだ。だがそれは、読み始めると没頭してしまう自分の性格について、私自身がまるで理解していなかったことを思い知らされるという結果を招いた。読み始めたのが土曜日だったのも災いしたのだろう。日曜の夕方には、あっさりと(上)を読み終えてしまったのだ。
 不承不承、無用の長物が床に積もり積もっている部屋の中で「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド(下)」の捜索を始めた。そしてそれは案の定困難を極めるものであった。しかし、よくもここまで汚せたものだ。ごみ箱はほとんど用をなしていない、と言えばどんなものが堆積物として私の部屋の中にあるのかおおよその想像は出来るだろうと思う。時としてもう二度と見たくないようなものまで見つけてしまい、思わずのけぞることもしばしばである。乾燥してスナック菓子のようになってしまったパンなどはまだ序の口である。正月に実家から送ってきた餅など、カビが生えてまるで草餅のようだ。またあるものは異臭を放っている。スーパーのビニール袋のたぐいは言うに及ばず。すさまじいとの形容詞が相応しいありさまだ。昨年この部屋に越してきたときのあの決意は、一体どこへ行ってしまったというのか。よもやこの汚い部屋の中のどこかにうもれているわけでもあるまいが、もしそうだとすれば、業者に頼んででもいいからぜひ見つけ出したいものである。
 だが汚い部屋の捜索を続けていくと、顔を背けてしまうもの達とはまた別に、結構色々なものを見つけることができる。たとえば100円ライター。煙草を持たずに外出して、その道すがらに買ったものだろう。今となってはどれくらいの数持っているのか自分でも把握できていないが、そういうものがふとした拍子に見つかるというのはなんとなく嬉しいものだ。しっかりガスも入っている。あるいは50円玉のように、本当の金子が見つかってしまうこともある。こうなると気分は正に宝探しだ。他にもたまに聞きたくなるようなCDや本の類、変わったところでは耳かきや小型の爪切りなど、次から次へとぞろぞろ出てくる。それが一々一体どういった経緯を経てこんなところにと思わされるものがまた多いから、その都度作業は中断してしまうことになってしまう。引越しや大掃除で懐かしいものを見つけてしまうというのと、もはやほとんど変わり映えがしない。しかしそういうのは大抵押入れなど、普段はあまり見る機械のないところで見つかるものだ。それがちょっと部屋を捜索しただけでゴミの山から見つかるなど、よくよく考えてみれば呆れた話である。
 ところがそんな中でも本来の目的物というのは簡単には見つからないものだからまた腹立たしい。それでも思いがけず見つかるものもまた多いのだから、収支としてはトントンといったところなのだろうが、そもそもはといえば「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド(下)」を探すために始めたことなのだ。これが見つからないことにはどうにもわだかまりが残ってしまう。徐々に面倒な気持ちの方に傾きつつはあったが、ともあれもう少し探してみようと気を取りなおして発掘作業を再開するのが常だ。

それにしても……と思うのは、なぜ自分はこれほどまでに整理整頓が苦手なのだろうかというその点に尽きる。よくよく考えてみれば、これは子供の頃からまったく変わっていないのだ。最初に部屋を与えられたのは、たしか小学生になってすぐの頃だったはずである。とはいっても個室などという大層なものではなく、それは姉と共同のものだった。それに加えて部屋そのものは四畳半と狭く、更には二人分の学習机と二段ベッドまで置かれていたのだから、正味床が見えるスペースと言うのはほとんどなかったと言ってもいい。入り口側に陣取る私が机に向かって座ると、姉は部屋を出るのに一度ベッドの上に乗らなければならなかったのだから相当なものである。しかし、よく考えてみると二段ベッドというのも最近ではあまり聞かない話になってしまった。私の家だって子供は二人しかいなかったのだから大層なことは言えないが、一人っ子の家庭などでは、部屋を持たせようと思えば必然的に個室ということになる。独立心云々の話があるので、ことの是非を簡単には断定しかねるが、なんだか羨ましいような気がしてしまう話ではないか。そう考えてみると、二段ベッドだってそもそも必要がないのだ。高校の修学旅行で寝台列車を利用した際に、ものめずらしげに多段ベッドを眺める友人を見て奇妙に思ったものだが、私くらいの年代で二段ベッドを実際に利用していたと言う子供のほうが本当は少数派なのかも知れない。
 ともあれ、初めて自分のスペースを与えられたその当時から、私は片付けというのが苦手であったように思う。反対に、姉はそういうことにかけては別段の苦労もしていなかったようだ。私の机の上はいつもなにがしかの物共に占拠されていて、ろくに本来の用途には使われなかったものだが、隣を見やるときちんと片付けられた綺麗な机がある。そのせいで私はいつも親からお叱りの対象になっていたし、子供心にもそれについて焦燥感のようなものを覚えた記憶があるが、これはおそらく向こうにしたところで同じことだったろう。境界線を越えて物を置くと烈火の如き怒りの矛先が向けられたため、それについては神経質になっていた私だったが、そのおかげで本やらプリントやらがうずたかく積み上げられた壁が出来上がってしまうのである。姉からすればそれがいつ崩れるか、崩れるとしたらこちらの方に向かってやってくるのではないかと、戦々恐々たる思いで毎日が過ぎていったに違いない。私と姉は、別段仲が悪かったわけでもなかったが、だからといって取りたてて良いというわけでもなく、常に一定の距離が存在していた仲だった。もしかするとその根底には、それぞれに注意を払いあった子供時代の思い出というのが横たわっているのかもしれない。

しばらく探してみたが、結局目的の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド(下)」は見つけることができなかった。これ以上探そうと思えば、おそらく徹底的に部屋を片付けることまで視野に入れなければならないだろう。それはそれで良いことなのだが、いかんせん日曜の午後から始めるにしてはそれは大掛かりすぎる仕事である。仕方がない。私は一旦本の続きを読むことを諦めた。先はもちろん気になるが、一度は読んだ本なのだ。余禄のようにして見つけた本もあることだし、それほど焦ることはない。そうやって私はまた万年床に横たわり、別の本を開いたというわけである。もしどうしても見つからなかったら、また新しく買えばいいさ……どうせ文庫本なんだからそれほど痛い出費というわけでもない。実はそうやって既に何冊かダブって買ってしまった本があることが気にはなったが、ともあれそんなふうにして日曜日は暮れてゆくのであった。経験からなにも学ばぬ私の部屋は、こうして今も汚いままなのである。

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