On the Line

携帯電話が一気に普及したのはそれほど昔の話ではないけれども、回りを見渡してみると、なんだか自分が生まれたときから既に当たり前にあったものなのではないかと思わされる。契約数だけで言えば固定電話を上回っていると言うのだから、なるほど実際大したものだと言わなければならないだろう。「ずっと首に鎖がかけられているような気がしてイヤだ」という声もよく聞くが、注意してみるとそれはまだ携帯電話を持っていない人の声であることがほとんどだ。また、携帯電話に着信があった際にイヤな顔を見せる人というのもそれほど多くはない__よっぽど差し迫った状況にいるのでもない限り。彼らは実に嬉しそうに電話に出るではないか。ありきたりの説明になるが、「自分が他の誰かから必要とされている」と感じるのは、確かに嬉しいことなのだ。少なくとも、その逆よりはよっぽどいい。それは首にかけられた鎖などではなく、自分が必要とされた時にすぐさま反応することができるようにするためのツールなのだ。しかもすごく便利な。道具は使うためにこそある。それを使いこなすことの、一体どこが悪い?
 いまや一人が2台以上の電話を持っていたからといって驚くことはない。部屋には普通の固定電話があって仕事用には携帯電話、プライベート用にももう一台。3つの電話番号である。それを時と場合に応じて巧みに使い分けるのは、もはや現代人の常識であるとさえ言えるのかもしれない。着メロでかけてきた相手の区別をするのだって朝飯前だ。確かに便利な話である。連絡が欲しくないときは黙ってスイッチを切ってしまえばよい。電話線を引っこ抜くよりはよっぽどスマートである。かくいう私も電話番号は二つ持っているし、まあそれなりに重宝もしている。
 しかしよくよく考えてみれば、これは格段の進歩である。

思えば高校生の頃までは、自分の電話を持つなど考えもつかぬことだった。電話とは家族が集う居間にあるものであり、そこにプライバシーなどというものはまるっきり見当たらなかったのである。もっとも姉と私の部屋があった2階にも電話はあったので、いざとなればそこに退避することはできたのだけれども。ただ、家が自営業だったせいもあってか、かかってきた電話を私が取るということはほとんどなかった。電話とはまず親が取るべきものだったのだ。つまり、誰にどんな相手からかかってきたのかはまったくの筒抜け。もし私が色気づいて女の子から電話がかかってくるような事態があれば一体どのようなことになったのか__想像するだに恐ろしいような気さえする。羞恥心というのは時としてすさまじいまでの破壊的結末をも招くものなのだ。たとえば腹立ちまぎれにかりんとうを部屋中にぶちまけるとか。甘ったるい香りとともに、家中がべとべとである。ただし、そんなことはもちろんなかった。女の子から私に電話がかかってくるようなことはなかったし、かりんとうをぶちまけるような事態にもならなかったのである。
 けれども、私はそんな状況にまったく疑問を抱いていなかった。やれ子供のプライバシーを尊重しろだの、俺に誰から電話があろうと知ったこっちゃねえだろうだの、勝手に部屋を片付けるのはまだしも、アレな本まで一緒にってのはちょっと勘弁してくれませんかだのという声は確かに当時もあった。また、それを当然のこととは思わないまでもある程度わかるよなあ、と思っていたのもまた確かである。けれども、私の家においてそれが家庭内問題として浮上する機会はなかった__と思う。少なくとも私に関してはそうだったのだ。だってそうだろう。せいぜい部活の友達から遊びの誘いが来るか、あるいは連絡網が回ってくるかくらいしか電話に用がないというのだ。そんなことでいちいちプライベートが云々などとぬかした日には、世界中がかりんとうでべとべとである。

そして私も晴れて大学生になった。親元を離れて一人暮し。とくれば当然電話の一本も引きたくなるのが人情というものではないか。電話代を自分で払わなければならないとはいえ、いつでも好きなときに使いたい放題である。母親の長電話にいらいらしながらかりんとうをボリボリ貪り食う必要もない。まさしくパラダイスである。ところがどっこい、結局私は4年間電話を引かずに過ごしてしまった。その代わりに私の住んでいた下宿にあったのがかのピンク電話である。
 なんというか、これが結構面白かった。私の元へはあまり電話がかかってくる機会というのはなかったのだが、10人からが過ごしている下宿ともなれば誰彼となく結構な頻度で電話がかかってくるものなのだ。しかも特別面倒くさがりの面々が揃っていたのか、放っておくと10回も20回も呼出音が鳴りかねない。そこで私が渋々出陣……ということになるのだが、誰からかかってきたのかがわかるというのはそれだけで相手のキモを押さえてしまうようなところがある。ささいではあるけれども、これだって結構な情報なのだ。たとえば毎年の春先、新入生には毎日のように母親から電話がかかってきたものだが、当の本人にとってあれはかなり気恥ずかしいものがあったに違いない__なにせ毎回電話を取るのが私だったのだから。別にだからといってマザコンだなんだと言うつもりはこちらにはないのだが、それでもやっぱり気にはなるだろうなあ。私が下宿住まいを始めて一番最初に覚えたのが、他でもない「電話がかかってきたら取れ」ということなのだから、新入生の気持ちはよくわかる。
 まあ、それでも大抵は男友達からという面白くも何ともない電話だった。だが、たまに女性から__しかもどう考えたって母親ではありえない声色の持ち主から電話がかかってきた日には、これがまた滅法楽しい。「電話ですよ」と誰それを呼び出し、そっと反応を探ってみる。大学生が部屋で何をしているのかといえば、これはもうダラダラしているものと相場が決まっているのだが、電話に出た瞬間背中に一本筋が入るのである。かくも過敏な反応を示すことが、一体他にあるのだろうか?多分ないだろう。講義中の居眠りを見咎められても悪びれもしないのが今時の学生なのである。しかし、次の瞬間には一気に背中を丸め、まるで見られたくないものを見られたとでも言うようにちらっとこっちを見やる。そして私が部屋に戻るまで、じっと口をつぐんで我慢我慢というわけだ。その変貌振りが、私にとってはなんだかひどくおかしかった。その視線を受けつつ、そ知らぬ顔で部屋に戻るのである。我ながらあまりいい趣味をしているとは思えないが、廊下から漏れてくるいつもとはまったく違う猫なで声を聞くと、こらえていた笑いがまたじわじわとこみ上げてきてしまう。
 私のいた工業大学は女性の比率が実に数%しかなかったので、彼女ができたとなればそれはもう周囲の耳目を一気に引き寄せる大事件だった。たかだか下宿のピンク電話に出るだけでその情報を押さえてしまえるのだ。その後、食堂で顔を合わせた時のことを考えてみればいい。別段どうってことはないことのはずなのだが、隣だか向かいだかに自分に彼女から電話がかかってきたことを知っているかもしれない相手が座っているのである。実際それが彼女であったかどうかなど私が知るはずもないのだが、だからといってあまりいい心持ちがするものでもあるまい。自然、視線を合わせないようにうつむき加減になる。で、こちらがそ知らぬ顔で食事をしていると、時折ちらちらとこちらに視線を走らせるわけだ。自ら白状しているようなものである。まったくもって楽しそうで結構な話ではないか。仲良きことは美しき哉。まあうまいことやってください。

私が大学生をしていた頃というのは、ちょうど携帯電話が普及し始める過渡期のような時期にあった。卒業する頃にはもうかなりの学生が携帯電話を持っていたし、今ではおそらくほとんどの学生に普及してしまっていることだろうと思う。そもそも、電話が共同などという下宿は当時でも少なかったのだから、これは少々旧時代的な話に属するものなのかもしれない。ひょっとしたら工大生でも彼女の一人二人いて不思議ことでもないのかもしれないし__いや、やっぱりそれはないか。こんな話が出てくるのも、工大に女性が少ないからだと言えるわけだ。どうにもあまり一般的な話ではないような気がしてきた。
 ともあれ、自分の電話がないというのもそれはそれで面白いものだった__と慌てふためいて電話に飛びついていた彼も思っていてくれればいいのだが。まあそれがイヤだってんなら、かりんとうでもまきちらしてくれれば結構である。

ところで件のピンク電話というやつは、これまた今では珍しいダイヤル式の電話だった。友達のアパートに電話をかけても、内線番号をプッシュ音で認識するタイプのものがほとんどで、特に試験でどうしても聞きたいことがあったときなどは随分難儀した記憶がある。特に2月の後期試験。わざわざ2〜3分ほどのところにある公衆電話まで寒さに身を縮めながら歩きながら、「一体俺は何をやってるんだ……」と思ったのも一度や二度の話ではない。今思い出してもバカみたいだ、と思う。

(4,133字)