朝っぱらから

札幌というのはやはり、どこをどうつついたところで完全無欠の地方都市である。

だが、通勤時間帯の駅の混雑振りというのは中々のものだ。交通機関はJRと市営の地下鉄、それから数社のバスだけと実にシンプルだが、オフィスビルが立ち並ぶ札幌駅から大通り付近にかけては、それだけでもかなりの人数が次から次へとやってくる。一体どこから来たものやら、思わず首を傾げずにはいられない。彼らはどこから来てどこへ行くのだろう。ちょっと仔細ぶってそんな問いを発してみることだってできるかもしれない。決まってるじゃないか。家から来て会社に行くのである。
 たとえば地下鉄の駅の話をしてみよう。ちなみに札幌の地下鉄は自動車と同じようなゴムタイヤで走っている。どれくらいの長さか実は知らないのだが、10両かそこらくらいはありそうだ。今、ちょうど列車が入ってきた。扉が開く。そこから出てくる人、人、人。ホームはあっというまに人まみれである。そしてまるで何かに取り憑かれたかのようにホームの端にある階段へと進んで行く。ぞろぞろ。皆判を押したように、人生には面白いことなんか何もねぇよな、というような表情だ。ただ、これから会社なり学校なりへ行くというのにやたらと嬉しそうな顔をしていたり、ないしはこれから親の敵討ちにでも向かうかのような悲壮な表情を浮かべられてもちょっと困る。ぞろぞろ。ときおり友達同士で通学しているらしい学生同士の笑い声が聞こえたりするが、なんだか妙に場違いである。やはりりラッシュ時の地下鉄のホームには無表情と倦怠こそが相応しいのだ。ほら、原色で塗り固められたスポーツ新聞を持った中年のおっさんも不機嫌そうな顔をしているではないか。i-modeなんか取り出してメールチェックなんかしてる場合じゃないだろうが。ええい、こんなところで化粧のノリ具合なんか確認するなッ。
 ことほどさように渋滞というのは意味もなく人の心を苛立たせる。しかしこちらがどんなに苛立ったところで彼らは無反応なのがちょっと切ない。ぞろぞろ。
 ともあれ随分色々な人がいるわけだが、そんな人たちが改札を通ってどんどん流れてゆく。もちろん出口は一つではないのでいくつもの支流に別れながら。ときおり切符だかカードだかの金額の不足で通りゃんせになる人がいるのはご愛嬌だろうか。けたたましい警報音と共に駅員さんがすっ飛んできた。もっともその真後ろに構えていた人にとって見ればご愛嬌どころの話でもなかろう。無理をして鉄面皮を押し通すか、当惑もしくはあからさまな嫌悪を見せるかは人によりけりだが、会社勤めが長そうな人に限って無表情である。エキスパートはそれしきのことでは驚かないものなのだ。ぞろぞろ。ときおり生じる淀みの他は、至極順調に一定のリズムが繰り返される。なんだか鴨長明のようだ。もちろんそれは黙って待っていればいつしかハけてしまうのだけれども、なんのかんの言ってそれまでがけっこう長い。そして束の間の平和の後にやってくるのは次の列車である。ああまたしてもぞろぞろ。そんなことを繰り返していると、実際にはただ立ち止まって見ているだけにも関わらず、なぜかこちらの方が疲れてくるように感じてしまう。一人一人としてはともかく、その和としての集団のエネルギーには、時としてすさまじさすら覚えさせられるのだ。とりたてて今更いうほどのことではないのかもしれないけれども。
 やれやれ、朝っぱらからご苦労なことだ。
 こんなことを考えている以上、私はいつまでたっても完全なサラリーマンにはなれないような気がする。

時々、その人の流れに逆らって歩く機会がある。
 もちろん普通の人に仕事がある日は私にだって仕事があるのだから、わざわざそんなことをしているわけではない。確かに面白い経験であることには違いないが、だからといって休暇を取ってまでするほどのことではないだろう。週に何度か研修を受ける機会があるのだが、これはその時の話ということになる。
 私が通う庁舎の前に地下通路への入り口がある。駅と直結しているのということもあって風の強い日や芯から冷える冬場などには中々重宝されているらしい。通勤時間ともなればそこから続々と人が出てくるのだ。駅へ向かうコースのおかげで、そんなふうに大勢が階段を登る中を一人で逆行することになる。服装は普段の出勤と同じスーツ姿。まだ就職活動中の大学生に見えるかしらん、などとあまり意味のない心配はあるが、大抵の人の目にはサラリーマンとして写ることだろう。幾人かが少し訝しげな目でこちらを見る。駅から仕事場へ向かう人ばかりの中でその流れに逆行する奴がいるのだから、確かに妙に思ったとしても不思議はない。これが休暇中であればそれこそ優越感に浸る場面なのだが、残念なことにこちらも仕事である。だが、そうでなくとも人から奇異の視線を受けるというのは面映ゆいような気恥ずかしいような、一種独特の快感じみたものを感じさせるものだ。ふふふご苦労様。僕はこれからキミタチとはちょっと違うトコロに向かわなければならないのでねえ。では失礼!
 心の中でなら何を言っても許されると思っているらしい。
 で、そのちょっと違う所が一体どこなのかと言えば、実は地下鉄の駅だったりする。これが地下街のトイレ掃除に向かうってんならもう少し違った話の展開も考えられるのだが、結局のところ最終的には普通の人になってしまうのだ。実に残念。駅に近づくに連れ、同じ方向へ向かう人の数も増えてきた。他の交通機関からの乗り換えの人がほとんどだろうが、階段から続々と人が降りてくる。やっぱり皆面白くもなさそうな顔だ。まあその点に関してはこちらも人のことを言えた義理ではない。やれやれ、今日もまた面白くもなんともない研修か。だからってまさか居眠りするわけにもいかないしなあ__なんたって受講生が一人なんだから。
 そこで私はふとあることに思い当たる。そういや腹減ったな。
 考えてみれば朝飯も食わずに部屋を出てきたのだった。こりゃいかん。朝食を抜くと作業の能率が劇的に低下するというではないか。ただでさえやる気のないところに持ってきて、さらに能率を下げるようなマネをしでかしたとあってはお天道さまに申し訳が立たないというものである。しかもこの研修は公費であるぞ。いずくんぞ朝飯をなど抜くことができようものか。ご大層な大義名分は結構である。結局のところは単に私がハラヘッタ状態に長くは耐えられないというだけの話なのだ。さっそく改札のそばにあるファーストフード店へと入る。こういう店だと、最近は朝早くから朝食用のメニューを用意して私のような朝飯も食わずに部屋を飛び出してくるような者を相手に商売をしているようだ。栄養の面やらなにやら色々言いたい人はいるだろうが、こちらはあるものはありがたく利用させていただくクチなのでそんなことは気にしない気にしない。とはいえ一抹の後ろめたさはやはりあるのだけれども。
 しかしずいぶんバラエティに富んだ顔ぶれだなあ。店内を見回して私はまずそう思った。朝食を摂っているらしいサラリーマン、OLはまあよい。しかしそこにいるスーツ姿のおっさん。コーヒーだけってのは一体どういうことなんだ?しかも時間を気にする様子もなく悠々としている。大物の風格たっぷりといいたいところだが、残念ながらここは安くて早いがウリのファーストフード店。大物ぶるにはちょっとロケーションが悪かろう。しかるになぜ彼は悠々とコーヒーなんか飲んでるんだ?時計を見ればそろそろ遅刻が気になる時刻である。う〜む。ああ、なんで家族連れがこんなところにいるんだ。平日の朝だぞ。なのにしっかりお父さんもいるではないか。お前らこれから一体どこへ行こうと言うんだ。朝っぱらに夜逃げというのも変な話である。しかも彼らにそのような悲壮感はない。謎だ。それに比べれば前の席のカップルなどわかりやすい方だろう。男の方がレポート用紙を広げているところを見ると、おそらくは大学生。流行りのちょっとくだけた格好もなるほど納得だ。しかし、それにしても、カップルである。時は朝。こいつらまさか早起きしてここで落ち合ったってワケでもあるまい。むむむ、うらやまし……いや、憎たらしい。ムカムカ。オマエのレポートなど担当教授にダメ出しを食らってしまえッ。書きなおしだ書きなおしッ。ええい、なんだって一日の幕開けが八つ当たりなのだ。
 ……それにしても頼んだモノが来るのが遅いな。私はもう一度時計を見た。う〜む。余裕たっぷりだと思ったのも束の間、そろそろ地下鉄に乗らねば研修所に定刻までに着かなくなってしまう。SSサイズのコーラをすする。朝っぱらからハンバーガーとコーラ。大したジャンキー振りだと思うのだが、服装はどっちかと言えばヤッピー(yuppie:都会派の若手エリートビジネスマン)だよな、と勝手に解釈をしてみる。虚しい。しかもこれから行くのは退屈の二文字が横たわる研修である。ため息。……ええいなんだってんだ。ここはファーストフードの店じゃなかったのか。早く注文の品を持ってこぉぉい。こっちはあと7分でコトをすませて地下鉄に乗らねばならんのだ。レポートなんか書いてる暇はどこにもないのだッ。イライラ。
「お待たせしました〜」
 お。
 私の苛立ちは一気に解消した。ブツを持ってきた店員さんがなかなかよさげだったのだ。単純なものである。ふふふ今日はよい日になりそうな予感。なんとなく研修も楽しみなものであったかのように思えないこともないような気がしないでもない。ハンバーガーが目の前に置かれた。おや?あの、追加のコーラなんか頼んでませんけど。
「遅れてしまって申し訳ございませんでした。こちら、サービスになります♪」
 ……あと4分30秒。

ええ食いましたとも飲みましたとも。(がつがつごくごく)×2ってな勢いさ。うう。炭酸を一気に飲んだら腹が膨れる。ぐぬぬ。急に食ったから胃が。満身創痍である。しかし時間はない。口をぬぐう間ももどかしく、私は慌てて席を立った。前払いというのはこういう時に重宝だ。また来るぞさらばッ。私はマニュアル的「ありがとうございましたまたお越し下さいませ」の声を背に受けつつ、風のように店を去った。カップルはあいかわらずレポートを書いていたし、おっさんは相変わらず悠々とコーヒーを前に新聞を読んでいる。家族連れはやっぱり幸福のカタマリみたいな雰囲気だ。うわ遅刻ッ。ばたばた。
 その時店の中で一番慌しかったのは、どうあがいたところでこの私だった。

やれやれ、朝っぱらからご苦労なことだ。

参考:goo英和辞典(三省堂EXCEED英和辞典)

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