スっぱい想い出

唐突な話で恐縮ですが、皆さん鮨(すし)はお好きですか?
 まあナマ物がダメって方も世の中には結構多いようですから、全員が元気よく手を上げてくれるとは思っちゃいないんですが、それにしたって鮨。いいですねえ。これぞ日本人の食い物って感じがするじゃないですか。ほら、外国の方が始めて覚える日本語は「スシ、テンプラ、ゲイシャ、フジヤマ」の4つだって話ですし。つまり鮨ってのは日本の象徴だとすら言えるんです。すごいでしょう。
 で、そのお寿司に欠かせないもの。それはお酢です。ここらへんちょっと展開に無理があるような気もするんですが、まあお酢を使わない寿司ってのもちょっと興ざめですからねえ。ピントがずれてはいるけど、間違ったことは言っちゃいないと思います。皆さん、お酢といったらまず何を思い浮かべますか?
 ……酢豚。
 こりゃまた随分食い意地が張ってますね。今の今まで鮨の話をしてたってのにまだ食べ物のことを思い浮かべますかアナタは。まあ絵に描いた餅は腹を減らせるだけだって話もありますが、それにしたって、ねえ。あ、でもそういや最近酢豚なんか食ってねえな。う〜ん、私も腹が減ってきました。

とまあ、与太はそこらへんで。お酢といえば私は高校時代の化学の実験を思い出しますねえ。ええ、確かに我ながら変な連想をするもんだと思うんですが、事実は事実だから仕方ない。
 学校時代の理科の実験。皆さん覚えてますか?そう、あの黒い机で真中になんだかきったない流しがついてる教室。あそこの水を飲んだらビョーキになるんじゃないかって内心ビクビクしてましたね。あ、プレパラートをペキっとやっちゃったこともあります。あれ薄過ぎるんだってば。それから炭素棒も何本か折りましたね。いやぁ、まさかあんなにモロいもんだとは思いませんでしたよはははは。
 ……なんの話でしたっけ。
 そうそう、酢といえば化学の実験を思い出すってことね。もうお酢なんて上品な言葉を使うのはやめますけど。
 高校の化学は無機科学と有機科学に分かれてます。周期表だ酸化だアボガドロ数だってのが無機科学。で、ベンゼン環だとかなんだか言うのが有機科学。
 その実験は無機化学の実験でした。内容はすっかり忘れてしまったんですが、実験に必要な薬品が机の上に載ってますね。ラベルに『劇薬』なんて書いてあったりして、当時のいたいけな高校生はそんな文字を見ただけで妙に興奮してはしゃいじゃったりしたもんでした。そのいくつかある薬品の中に、酢酸ってのがあったんですよ。ようやくすこし繋がりが見えてきましたね。一時はどうなることかと思ったんですが。
 ま、ともあれ酢酸です。え〜とCH3COOHでしたっけ?なんでC2H4O2って書かんのじゃと最初は思ったもんです。まあ、そこにはちゃんと理由があるんで、知らない人はうんうんそうだよなって訳知り顔で頷いといてください。間違っても私には聞かないように。
 酢酸ってのは要するに酢だって話はその時の私も一応知ってました。まあ、それでちょっとナめてたところはありましたかね。な〜んだ、劇薬たって所詮は酢じゃねえか。よくわからない見くびり方ではありますけど、まあ思春期の少年ってのは何に対してもとりあえず一度みくびってみないと気がすまないもんなんです。な〜んだ、親って言ったって所詮はサラリーマンじゃねぇか。先生って言ったって所詮は先生じゃねぇか。理由なんてどうだっていいんですよ。こういうのを多分反抗期なんて言ったりするんでしょうが。

で、劇薬である酢酸ですが、これを見くびっていたのはどうも私だけではなかったみたいです。いますね、危険だとかやっちゃイカンとか言われてることはとりあえずやってみないと気がすまない人が。私の隣に座ってたγ君もそんな冒険野郎、あるいはイカレポンチの一人でした。彼は果敢にもほぼ100%、純粋酢酸のニオイをかいだんですね。まあ、所詮酢だからたいしたこたないだろうと私も思ってましたんで、冷ややかな目でそれを見てたんですが。そうしたらγ君が突然のけぞった。
 いや、これには正直驚きましたね。たかが酢ですよ。それのニオイをかいだだけでひっくり返るとは、なんて大げさな奴なんだ。まあそうは言っても一応「大丈夫?」なんて言ったりするわけなんですが。いや、大丈夫大丈夫、なんてγ君も言うわけです。
「いや、でもこれすげぇわ」
 は?なにを言っとるんだコイツは。
 不遜にも私はそう思いました。重ねて言いますけど、所詮酢じゃないですか。それのどこがすごいってんだ。
「ま、かいでみ」
 γ君はこうも言うわけです。そこに漂うほのかな挑発のニオイ。
 むむむ。私とγ君のあいだに一瞬火花が飛び交いました。ここで引き下がったら反抗期の少年じゃありません。おうおうそんなに言うならやってやろうじゃないかい。と、腕まくりせんばかりの勢いで酢酸の壜にとりつきます。なんて扱いやすいヤツなんでしょう。
 ですが、最初の内はなんてこともありません。教科書通りに手をパタパタやっても鮨飯と同じようなニオイしかしない。ん〜?これのどこがすごいんだよ。酢(酢酸)に対する見くびりはさらに高まります。ついでにこんなモノでのけぞってしまうγ君も見くびってみたりしまして。まあ、手であおいだってわかるニオイってのはたかが知れてるだろう。それならいっそのこと……と壜の口に鼻を近づけて思いっきり吸い込んでみると……。
 ぎゃあ。
 いや、まさかあんな強烈なもんだとは思いませんでした。なんて言えばいいんでしょうかねえ。鼻の中を無数の針でつつかれたって言うんでしょうか。たとえて言えば強烈なわさびを食ったときの感じに似てます。ツ〜ンと鼻に抜けるあれを、更に強めて酢の匂いでブレンドしてやってください。ええ、もちろん私ものけぞりましたとも。涙が止まりません。ううううこんなに凄かったのか酢酸ってヤツは。ごめんなさ見くびっていた私が悪かったですもうしませんから許してください。
 そんなこと言ったって涙が止まるわけがない。
 生物の実験で蛙の解剖をした時のことを思い出しましたね。刺激を与えると麻酔にかかっている蛙がちょっと動くってやつです。そういえばアレは酢酸を染み込ませた紙を蛙の背中にぺたっとはりつけたんだっけ……と思い出したところで今更遅い。結局その実験の間中、私とγ君は口で息をする羽目に陥ってしまいました。ふがふが。いやあマヌケですねえ。
 でも、γ君と私は「あれはスゴかったよな」なんてちょっと誇らしげな視線を交わしたりしたわけです。男二人は酢酸のニオイを嗅ぐという共通項によって解りあったんですね。蛮勇というか、まあ要するにただのバカ二人組なんですが、それが高校生ってヤツなんでしょう。ははは。

しかし、その印象ってのは非常に強烈でした。なんたってあんた、大したことはないとタカをくくっていた相手にしてやられたわけですからね。これはもう参るしかない。でも、あれ鼻つまってる時にやったら一発開通しそうだなあ。私はそんなのまっぴらごめんですが、勇気と根性のある向こう見ずな方は一度チャレンジしてみてください。
 しかし、なんでも酢酸ってやつは無機化学の中じゃあ屈指の刺激臭らしいですね。ああ、凄い向こう見ずなことをしてしまったわけなんだなあ、と今更ながらに思います。
 ま、それ以来酢の匂いをかぐとどうしてもその時のことを思い出してしまうわけでして。つ〜ん。で、鮨を食うときにも酢の匂い。一気にノスタルジーの世界ってやつですよ。ラベンダーの香りでどうこうってSFがあったような気がするんですが、ちょっと酢じゃねえ。いくらなんでも格好がつきませんな。

おっと、少々長話になってしまいましたね。では本日はこの辺で。どうもご苦労様でした。また縁があったらお会いしましょう、ということでそれでは失礼。

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