夏の爪楊枝

部屋の中がぐちゃぐちゃだと、不快指数が2割増くらいになっているのではあるまいかとゴミの山の中で腕組みをしつつ思う。
 なんといっても見た目が悪いし、ゴミどもの間に湿気が入り込んで蒸し暑さを助長したりするかもしれない。その中にカビのはえたパンが転がっていたりしたら、事態はまさしくスクリーム。ぎゃああ。
 そんなわけで、連日の暑さに後押しされるようにして私はとうとう一大決心をするにいたった。おりしも時は夏休みである。年休も二日くっついているのである。そう、部屋を片付けるのだ。否、片付けねばならん。

それにしてもよくぞここまで……というくらいにゴミが次から次へと、飽くことを知らずに出てくる。いつかこんな日も来るだろうと思って買っておいた半透明のゴミ袋はどんどん消費されていくばかり。どうやら床の上に陣取っていたものの少なくとも7割は本当にゴミだったらしい。ティッシュペーパー、ポテトチップスの空き袋、ペットボトル、空き缶……な、納豆の空パック。
 しかし、燃えるゴミの日はまだ少し先だった。それまではこのゴミともう少し共同生活を営まなきゃならないんだよな……玄関先にはどかどかとゴミ袋が積まれてゆく。なんだかちっとも片付けている気がしない。

それでも努力の甲斐あって、発掘作業は徐々に進んでいった。お、床が見える。ああやっぱり床っていいなあ。なにせ踏んづけても痛くないところが実にイイ。これで足の裏をざっくりなんて心配することもなくスキップができるわけだな。よし、あとはスキップをするような状況がやってくるのを待つばかりだわはは。
 こういうのを多分ささやかな幸せというのだろう。ささやかすぎてできれば誰にも話したくないような気がする。
 しかし、そこに浸っていた私は、そこでものすごくイヤなものを見つけてしまった。うわ、これも片付けなきゃならんのか。

思い起こせば2ヶ月前。すでに大型ゴミ置き場と化して久しい部屋の中で、私は夕食後のひとときをぼんやりと過ごしていた。部屋は汚くても食後はやっぱり幸せ。煙草などふかしながら、のほほんとした満足感にうっとり。
 と、歯の間に異物感が。私はテーブルの上に置いてあった爪楊枝を取ろうと手を伸ばした。当然といえば当然の振る舞いである。だが、それが不幸の始まりだった。
 私が取り出そうとした爪楊枝はことのほか寂しがりやであったらしい。つい、と取り出したところ、あろうことか、彼奴は仲間を全員引き連れてこちらに来ようとしたのである。たった一本の爪楊枝にぶらさがるように、容器が危なっかしく持ち上がる。
 げ。私は瞬時に危機を察知した。そう、察知した……だけ。
 どしゃ。ばらばらばらっ。床一面……にばらまかれたゴミの上にさらにばらまかれた爪楊枝。ひょえええ。
 かくして大惨事は現実のものとなった。

それからしばらくのあいだ、入り用になったときには床から爪楊枝を拾うという生活が続いていた。汚いことは確かだが、なんだかそういう文句をつけるのが場違いなくらいの部屋に住んでいるのだ。自然、感覚は次第に麻痺していく。しまいには目に見えるほこりを軽く払えば大丈夫、と思うくらいにまで私の神経は図太くなっていった。
 しかし、しばしの時を経て対面してみるに、状況は私が思っていたよりもすさまじかったということが浮き彫りになってしまった。床の上に散らばる爪楊枝、また爪楊枝。これを拾って、近くに転がっていた容器にまた入れなおさなければならないのか……げんなり。
 いっそのこと、後回しにしてしまってもよいのではないか。そういう囁きがあったのは確かである。一体何本あるのかわからないが、一本一本拾い上げていくことを考えると気が遠くなる。それなら部屋全体をざっと片付けてからコトにあたった方が精神衛生上よろしいような気もした。汚さ満点の部屋の中でちまちまとやるには、それはあまりにもわびしすぎる作業のように思えたのだ。
 おりしも、せまりくる埃の群れへの防護策として、私はマスクを装着していた。マスクをした男(一人暮らし)が汚れ放題の部屋の中でちまちまと爪楊枝を拾う……馬鹿丸出しではないか。

ええい、とそこで心の中にまだかろうじて息づいていたらしいもう一人の私が叫び声を上げた。彼はなんに対しても前向きであり、思い立ったが吉日的人物である。お前は何事も後で後でというからいかんのだ。思い出してもみるがいい。もうかなり前の話になるが、やはり部屋を片付けようと一念発起したことがあったではないか。その時だってせまり来るゴミ共をかきわけかきわけ、なんとか床が見えるまでに回復したはずだ。だがその時も結局は最後まで片付けるにはいたらなかった。何故だ?ある程度まで片付けてしまったら「あとのことはあとでいいや」とかぬかしおってぬくぬくしてしまったからではないか。同じコトをもう一度繰り返そうというのかこのすっとこどっこい。
 むむ、言われて私は思い直した。確かにそのとおりなのだ。しかしもう一方で「あとでいいよあとで」という意見が根強くあるのもまた確か。私の心は葛藤のはざまで揺れ動いた。両者は互いに相譲らず、戦いの火花がばちばちと青白く飛んでいる。爪楊枝を片付けるべきか否か。
 こういうのをアンビバレンツの極地というのかもしれない。二律背反といえばわけがわからないが、カタカナにしてみるとなんだか格好いいような気もする。むむむ。むが一つ増えた。

然るに私は爪楊枝を片付け始めたのである。冷静に状況を考えてみると、マスクをした男(一人暮らし)がばらまかれた爪楊枝を前にむむむと悩んでいるわけだが、これがまたとてつもなく馬鹿らしいことのような気がしたのだ。どの程度の馬鹿らしさかというと、ちまちま爪楊枝を拾うのと同じくらい馬鹿らしく思える。それならちまちまの方がなんだか建設的なんじゃないだろうか。なにもしないよりはしたほうがなんにしたところでマシだろう。うむ。
 理屈はさておき、結局のところ勝負というのは時の運に左右されるものだ。うるさい、黙って爪楊枝を拾うんだ。もう一人の彼はちょっと鬱陶しいくらいに元気いっぱいである。

それにしてもこういう細かい作業というのは実に骨が折れる。ばらばらなのはともかくとして、全員が同じ方向を向いていてくれればまだいいのに。しかし、自然の摂理というのはそう都合よくはできていない。転がっている爪楊枝はあっちを向いたりこっちを向いたり。うかつにわしづかみにすると手に爪楊枝が刺さる。流血という事態だけはなんとしても避けたいので、結局のところは一本一本拾っていくより他に道はない。ちまちま。
 しかも真平らな床の上の爪楊枝というのがこれまた拾いにくい。大雑把な手つきではころころころり、ちょこまかと逃げやがりくさって元来手先の不器用な私をイライラさせてくれるわけなのであるこん畜生メがッ。ちまちま。

何度悪態をついたことだろう。どれくらいの時が流れたことだろう。しかし、とうとう私はやりとげた。この掌に乗っているひとかたまりを容器に移し替えればいよいよ万歳三唱。とうとうやったぜこの野郎、と思わずにはいられない。嬉しさは爆発寸前とあいなった。左手に容器。右手に爪楊枝。さあいよいよその瞬間が刻一刻と近づきつつあるのです近くば寄って目にも見よ。しろ●はとうとうここにやりとげたのだ。ここでまた容器をひっくり返したら大笑いだよなわははは。

油断大敵火がぼうぼう。誰が言ったのか知らないがそんな言葉がある。
 えいえい。むむ、こいつなかなかしぶといなぐいっ。ぐらり。わわわ。どしゃっ、ばらばらばららら。ぎゃあああ。
 きっとこういうときに使うんだろう。


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私はふたたびばらまかれてしまった大量の爪楊枝を前に、しばし茫然自失の状態にあった。右手にひとかたまりの爪楊枝。左手にそれを入れるための容器。そこまではなんの問題もなかったはずなのに、なぜ。そして今までの俺の苦労は一体どこへ。ひょっとして全部無意味?ふりだしにもどる?
 やはり容器は安定した床の上において作業するべきだったのである。空っぽならばいざ知らず、それなりの量の爪楊枝で満たされた容器へ一気に突っ込もうとして、そううまくことが運ぶはずもない。そのバランスを保つのが容易ではないことくらいわかっていたはずなのだ。ああそれなのにしろ●ったら。
 戦時中、ナチスドイツの収容所ではただ穴を掘って埋めるというそれだけの作業が行われていたと聞く。頭の中にそんなえげつない作業を強いられている自分の姿がよぎった。
 ぎゃああああああ。もうやってられっかこんなことやめだやめッ。そうだそうだそうともさ、爪楊枝なんかなくたって誰が困るもんか。爪楊枝がないからって死んだやつなんかいないんだもんねふ〜んだふ〜んだ。どうしても困るってんならまた新しく買ってくりゃいいだけの話じゃねぇかわはははは。キライだキライだお前なんかだ〜いっ嫌いだうひゃひゃひゃ。
 そう叫んで流血沙汰になるのもものかは、100は下らぬ爪楊枝共をひっつかんで燃えるゴミの中に叩き込んでしまえればどれほど良かっただろう。そして、実際その寸前までイってしまったのも確かである。握り締めた拳が小刻みに震えていた。叫び声はすでに喉のてっぺんまで上り詰めてきていた。そうだ。すべてを投げ出してしまえば楽になれるのだ。槍は投擲の寸前であり、沸騰した熱湯はふきこぼれんばかり。ツーアウト満塁カウント2−3で投じたボールはストライクゾーンを大きく外れて大暴投。とにかく、奇声を発して振り上げた拳を叩きつけるだけですべてにケリがつくはずだった。

しかし__私はそうはしなかった。それどころか、再びちまちまと爪楊枝を拾い始めたのである。
 何故だろうか。一本一本に魂を込めて削りだしていく爪楊枝職人のことを思ったから?目の前に転がっているのは一山100円の爪楊枝である。自らの経済的困窮に思い至ったから?もう一度いうが目の前に転がっているのは一山100円の爪楊枝である。突然愛が芽生えてしまったから?くどいようだが目の前に転がっているのは一山100円の爪楊枝である。
 結局のところ、何故その状況をこらえることができたのかについてはいまだに見当がついていない。ひょっとするとそうすることによって、今まで積み重ねてきたものがすべて無意味になってしまうことを恐れたのかもしれない__労働にはすべからく意味があってしかるべきなのだ。
 だが、それはあまりにも後からとってつけた理屈が勝ちすぎているような気がする。ただなんとなく、というのがおそらく一番ふさわしかろう。いずれの道を選択したってよかったのだ。理由は後からついてきたはずである。

なんにせよ私はその後も爪楊枝を拾いつづけ、結局は当初の目的を完遂した。達成感もあればこそ、出てきたのは「あ〜あ」というため息と疲労感ばかりである。本当ならもっと早くに片付け終えていたはずなのに。
 多分、爪楊枝を見るとそのことを思い出すだろう。今はまだそれほど時間が経っていないので記憶も鮮明である。しかし、爪楊枝を見てそんなことを思い出す将来の自分のことを思うと、いささかげんなりしてしまう感は否めない。今年の夏の思い出は爪楊枝、ねえ。

今はまだ夏である。
 ……多分。

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