叱る

No.037
 過ちを犯した人びとに向かってわれわれがする説教には、善意よりも傲慢の方が多分に働いている。そしてわれわれは、彼らの過ちを正そうというつもりはそれほどなしに、むしろ、自分がそんな過ちとは無縁であることを彼らに篤とわからせるために、叱るのである。

子供の頃はよく叱られたものです。親であったり、先生であったり、学校の先輩であったり、皆さん私よりも年上で多くのことを知っていて、世の中の理というものについてそれはまあ懇々と、時には怒号をもってあるべき道を教え諭してくれました。部屋はきちんと片付けなさい、嘘をつくんじゃない、お前の作った酒は濃すぎる、云々。
 だからといって私が素直にそれに従ったかというと、必ずしもそうとは言えないなあ、と今になって思います。表面では塩らしくしていたかもしれませんが、心の中では舌を出していたような、そんな感じですね。

叱られていい気分になるという人はあまりいないでしょうし、いたとしたらマゾっ気を真っ先に疑われてしまうんじゃないかと思います。もっとも世の中には「叱られてよかった」ということもあるらしいんですが、それにしたところで実感するのは後で振り返って初めてわかるということがほとんどでしょう。自分が渦中にいるときに第三者的な判断を下すことができるという人はそうそういるものではありません。
 実際のところ、叱られているときに感じる反感というものの根底にはこういう思いがあるんじゃないかと思います。逆に叱っている立場の人は「じゃあお前はどうなんだよ」と言われるのが怖いはずですから、「いや、俺はそんなことはない」と胸を張って言えるような状態にないと中々叱るというところまではいかない。そしてその「いや、俺はそんなことはない」という主張が表に出すぎるとこの傲慢という落とし穴にはまるというわけです。上から見下されるような言い方をされるとどうしたって反感というのは出てくるものですが、つまるところは「俺は違うんだぞ」という意識をどこかで感じ取っちゃうからなのかもしれないですね。そうして叱ってる方と叱られている方がどっちともご立腹という目も当てられない事態になる。
 けれども、だからといってまったく叱られない、叱らないというのもちょっと考え物です。人間放っておくとどこ行っちゃうかわかりませんからねえ。朝顔をちゃんと育てたければ棒が必要ですし、木には時々剪定が必要です。
 ただ当然叱り方にも上手下手はありますし、相手によっても感じ方は当然違ってきますからそこらへんの調整というのは難しいですね。いざ怒るぞってときに冷静にそこまで考えてる人というのもいないでしょうから、教え諭すような説教の方が両者が冷静な分まだマシかもしれません。ただ、テクニックに走った説教ってただのイヤミですしねえ。
 ま、あんまり策を弄することなく、自分の言葉で丁寧にいくしかないでしょう。当然相手のことを慮ることは必要ですし、それなりの裏付けもないといかにも薄っぺらい。説教なんてじじむさい、なんて意見もあるかもしれませんが、若造に説教されるのは学生時代だけで勘弁して欲しいような気がします。そりゃあきちんと経験を積んでる人ならしかたないな、とも思えますが、そういうことなしにただ威張られるのはたまったもんじゃないですからね。
 そんなわけで、世のおじさん達に期待するくらいがいいところかな、なんて思ったりしたわけなのでした。