幸福感の相対性

No.049
 人は決して自分で思うほど幸福でも不幸でもない。

大学を卒業する日が徐々に近づいていく中、「合格通知をもらった時にはあんなに嬉しかったはずなんだけどな」と思ったことを覚えています。ろくに勉強もせず単位は必要最低限で、理系の大学に進んだはずなのに途中でその道を投げ出して文系科目で就職試験を受けてしまったりしたのがその原因だったんですが、合格した時の嬉しさをそのままに保ちつづけていれば今ごろは研究職にでも就いていたかもしれない。初志を貫くのは難しいことなんでしょうが、しかし一体この4年間で一体何があったんだ、という疑問は当然のように浮かんできた、というわけです。
 当然その4年間で色々なことがあったわけですから、始めの新鮮の気持ちが失われていくのは仕方のないことです。既に大学に通って「授業がつまんねえなあ」とか思っているのにいつまでも合格した時の喜びに浸っているというわけにもいかない。感情というのはどうしたって新しいものによって上塗りされていってしまうものなんでしょう。時たま下地が顔をのぞかせているところを見つけて「ああ、あの時は嬉しかったなあ」と思い返すことはあるにせよ、それはあくまでもそれだけのことでしかないですね。

しかし、そういう風に考えてみると「はて、あの時は本当に幸せだったんだろうか」という疑問が頭をもたげてきます。実はあの喜びというのはただの錯覚だったんじゃないだろうか、傍から見ると滑稽なだけに過ぎなかったんじゃないだろうか、というように。そういう時にその嬉しさや、喜んでいた自分を冷ややかに見つめている今の自分というものに気づくこともあるかもしれません。その「幸せ」がありふれたものであるのなら、それはなおのことでしょう。ごく普通の存在でしかない自分に嫌気がさしてしまうこともあるかもしれない。おそらく大学卒業間近の私が感じたのもそういうことだったんじゃないでしょうか。
 誰かが幸せであるのかどうか、傍から見ていてわかる場合もありますしわからない場合もあるものですが、最終的にはその人自身がどう感じているかに委ねるほかはありません。自分が幸せだと思っていることが他の人からはそう見えない、ということもあるでしょう。逆もまた然りということでして、そういった意味ではやはり「人は決して自分で思っているほど幸福でも不幸でもない」ということになります。何かを達成した時に「いや、まだまだですよ」なんて言っている人をTVなどではよく目にしますが、それに対して「なに言ってんだこの野郎は」と思うのは、もしかするとこっちの勝手な価値観を押し付けているだけなのかもしれないですね。

それはさておき、幸せかどうかというのが自分の判断に任されるのであるとすれば、その感じ方というのは時とともに変わっていくものだと言うことができます。そのときの周りの状況や精神状態にもよってくるでしょう。時によってその人の立っている場所は変わってくるはずですから、それによって見えてくる風景が変わってくるのはごく当たり前のことだと言えるわけです。
 つまるところ、幸せというのが相対的なものであって、しかもその判断基準が時とともにどんどん移り変わっていくものだとすれば、いつかの幸せを今日はそうとも思えないということは別段珍しいことでもなんでもないということになります。そういった意味でも「思っているほど幸福でも不幸でもない」と言えるんでしょう。

人間の価値判断が多くの場合において相対的だというのは考えてみると色々でてくるものだと思います。美味しいと思うもの、綺麗だと思うもの、善と悪の区別などなど、それこそ例につまることはないでしょう。だとするとすべての人が認める「本当の」なんていうのはないということになる。あるのは人それぞれの価値基準に則った「本当」だけなのかもしれません。我々が求めているのはきっとそういうものなんでしょう。自己満足といってしまえばそれまでなのかもしれませんが。
 けれども、目標に向かってなにかをする充実感というのは確かにあるものです。それはもしかするとその目標の中にある、色あせることのない何かを探してのことなのかもしれませんね。後で振り返ってみて気が抜けることがあってもいいんじゃないでしょうか。そこに求める本当の幸せがなかったとしたら、次の目標を見定めればいいだけの話です。思うほど幸福でも不幸でもないにせよ、この言葉に入り込んで何もしないというのはただのニヒリズムに過ぎないですからね。