冷たい天の川

大学のグラウンドに寝転がると、視界には空ばかりである。冬の空気は糸を張ったような緊張感に澄んでいて、暗さに目が慣れてくるといつもより多くの星が見えた。それは普段から見えていたはずなのに、今まで気付かずにいた星たちだ。さほど視力のよくない自分の目のことを思えば、それでもまだ気付かずにいる星の方が多い。一面に積もった雪が背中を通して冷気を伝えてくる。天の川が見えた。
 その時になにかを考えていたわけではない。けれども、今そのことを思い出しながら色々なことを考える。

あれはいやだとか、これはこうなる可能性があるんじゃないかとか、口ばかり達者でろくに動こうとしない自分にしては、それはあまりにも馬鹿げていることだけにかえって冒険だったと言える。下宿から歩いて1分とかからないグラウンドは、日が落ちると時折通り抜ける以外には人の気配がほとんどなくなる。
 真夜中を回ったあたりにふと思い立って部屋を出た。どうこう言ったところでそれがひどくささいなことには違いないから、結局冒険と呼ぶには役不足だろう。けれども自分にはそれくらいが相応だったかもしれない。
 数年前のことではあるにせよ、これは今の自分にも言えることのように思う。理屈ばかりが先に立ち、実行が伴わないところは今の自分にこそより当てはまるとさえ言えるからだ。遠くまで来ていたつもりが、実はそれほどのこともなかったらしい。変わったところもあれば、あまり変わっていないところもある。そう言ったほうが正確なのか。

自分には自分なりの世界があって、どれだけそれだけ逸脱しようと試みてみたとしてもそれは結局自分の世界を広げるだけにすぎない。それが重要なことは認めるとしても、完全にそこから離れた外側から自分というものを見つめることはできないのだろう。他人には他人の世界があり、それを完全に我がものにすることができないというのもまた然り。同じように猫一匹にも独立した世界があり、雀や鶏に始まって、近くの川原で鳴いていた蛙やそこで泳いでいた魚、果ては木の一本や道端の石一つ、草の一本にいたるまでの全てに、そこから見た世界というものがある。
 更に言えば地球も独自の世界を持っているし、更に他の惑星や恒星へと拡張してゆくと宇宙そのものが一つの世界をなしているということになる。そこからより大きなものへと広げてものごとを考えることもできるのかもしれないが、それは未だこの知識の及ばぬ範疇のことだ。いつしか思考は無限大の岸辺におそるおそる立ち尽くしている。
 逆にこの身のうちにある細胞の一つを取ってもいい。行き着く先は原子か、それともクォークか__いずれにせよ、それがすべてをなす最少の構成単位かどうかという問いに対しては確たる解答を持つことができない。もしそこから進もうとするのであれば、やがて無限小へとたどり着くだろう。
 さて、どちらへ進んでも最後には無限なものへと収束するのなら、自己とは無限の狭間で揺れ動くささやな断片である。あるいはその狭間こそが一つの世界をなしている__とすると、それとはまた存在を逸にする世界がどこかに存在しているかもしれない。
 ともあれ、現実では大きな世界が小さな世界を内包しているように見える。けれどもそれさえ絶対普遍なものではなく、一つの閉鎖系の中における主観の賜物に過ぎないかもしれない。そう考えるとなにやら面白いようにも思えるし、至極つまらないことのようにも思える。
 ただ、不可思議なことではあるだろう。

気がつくとまた冬が巡ってきている。冷たい雪の上に寝転がってから、もう何度目かの冬だ。札幌の空もこれで中々明るくて、見える星の数は随分と少ない。それは悲しむべきことか、憂うべきことか。だとすればなぜ憂い、悲しまなければならないのか。自分なりの理由がそこになければ、それはお仕着せの感情だということになってしまう。まずはそこから始めよう。掘り下げて、掘り下げて、なにかが見つかるとは限らない。ただ少なくともその途中にいるのであれば、必ずしも憂い、悲しまなければならないということはないだろう。淡々と、粛々と、あらゆるものごとを受け止めておけばよい。
 かつて4年を過ごしたあの空のことを思う。今自分がいる位置はそこから遠く、そして近い。あの時__傍らを時折車が行き過ぎた。