たとえば彼が

たとえばファミレスでコーヒーでも飲みながら、彼がちらっとこんなことを口に出したとする。
「みんなが僕のことを嫌ってるんじゃないかと思うことがあるんだ。それは大げさだとしても、少なくとも好きではないってことは確かな気がする」
 一体何があったのかはわからない。おそらくなにかツラいことでもあったのだろう。仕事でヘマをやらかして叱られたのか、あるいは友達同士の集まりでちょっとはしゃぎすぎて逆に場をしらけさせてしまったのか。どちらにしても原因と結果の間には特に問題はなさそうだ。ヘマすれば叱られるし、場の雰囲気を逸脱したはしゃぎっぷりは周りの人たちを突然現実に陥れることがある。あたりまえのことだ。
 もちろん彼の身に起こったことがそのいずれかだというわけではないが、端から見て彼が一方的に攻撃を受けているとは思えない場合が往々にしてあるものだ。時にはただの思い込みであったりすることさえあるのだから__今回もまたお得意の被害妄想が始まったのかと感じたとしても無理からぬことだろう。

けれども彼が言ったことだけを捉えるとすれば、それは至極普遍的な疑問である。とりあえずなにが彼をしてそう言わしめたのかはさておいて。
 誰しも不安を抱えて生きているのだし、それが「みんな内心では自分のことを好きでもなんでもないのに、ただ惰性で友達みたいに付き合ってるんだ」という具体的な形をとって現れてくるのは決して珍しくないことだと思われる。おそらく、誰しも一度は同じようなことで悩んだことがあるだろう。そういうときには周りの人が皆強く、自分がひどく弱く思えてくる。
 だが、それで眠れない夜を過ごしたとしても、それを口に出すのはひどくはばかられるものだ。自分の弱い部分は誰にも見せずに隠しておきたいものだから__できうるのであれば自分自身の目からでさえも。しかしそんなことは不可能だからまた思い悩む。すでにその足は泥沼にとらわれているのだ。やがて誰にも会いたくなくなる。誰にも会わずにいると、今度は「付き合いの悪いヤツ」だと思われるんじゃないかと不安になる。たまの機会にはその不安を打ち消すためにはしゃぎすぎ、我に返って猛省の嵐にかられる。そしてますます誰とも会いたくなくなってゆく__今風に言えばバッドスパイラルだ。なにか好転するきっかけがあるまでその循環は続き、もし永遠にきっかけがつかめなければ自ら崩れ落ちてゆく。自分で自分を消し去りたくなってしまう。
 ひどいものだ。そこまで嫌われることなど、そうそうあることではないというのに。

と、いうようなことを「そういうことって俺にもあるなあ」と前置きをしてから言ったら彼に怒られた。こっちはそこまで考えこんでいたわけでもないのに、お前が先回りして余計なこと言うもんだからこっちまでその気になっちゃったじゃないか。そのおかげで今夜眠れなくなったらどうしてくれるんだ__というわけである。
 やれやれ。これではこっちの方が彼に嫌われかねない。
 まあどちらにしたところでファミレスの煮詰まったコーヒーをがぶがぶ飲んでれば今日は目がさえて眠るのに苦労することは確実だ。つまりどう転んだって今日は悶々とした夜を過ごさなきゃならないんだからいいじゃないか。そんなことを口にしたらまた怒られそうなので心の中でごにょごにょと言ってみる。それだけじゃ間がもたないので煙草でも吸うことにしよう。しかしこの調子だと1時間もしないうちに吸いすぎで酸欠になってしまいそうだ。
 あ、コーヒーおかわりお願いします。

殻を打ち破って外に出ろ、とはよく聞く言葉だが、天邪鬼にそんなことをいくら言ったところでせせら笑いがかえってくるのがオチである。世の中がそんなにうまくできているのなら、今ここにこうしている自分はなんなんだ?そんなことを言われたって困るのだが、少なくともJ.F.ケネディマハトマ・ガンジー、ないし聖徳太子でないことは間違いない。
 このようなものの見方を穿っているだとか斜に構えているとかいうわけだが、それはそれでまあいいだろうと思う。多様性こそが世界を織り成す一つの側面なのだから、たとえ自分の気にそまない考え方を持っている人間がいるとしてもそれに腹を立てるのはお門違いのそしりを免れないのである。第一、もし現状に変化を求めないのであれば、殻に閉じこもるというのは有効な手段の一つではないだろうか。変わるというのはそれ自体楽しいことだとは思うが、そうでないとするものの見方もまた可能なのだ。

けれどもその殻の中で悪循環が発生していたとしたら?

世の中の皆が自分を嫌っているというのは明らかに誤った発想だろうと思われる。それでいてなお外に向かっていけたり、自分なりの思索を思い巡らせていればよしとしないでもないが、ただ閉じこもるだけで縮小再生産を行っているというのはあまりにももったいない話だ。誰がなんのために生きていようが勝手だが、望んではいないにも関わらず矮小に通ずる道を歩き、しかもそれに気がついていないような人がいる場合、方向修正のために軽く手を添えてやるくらいは許されるのではないかと思う。
 ただ、そういう時に外側からどのようにして手を差し出すか__これは相手によっても、また手を差し出す側の考え方によっても変わってくる話だろう。恫喝もあれば説得もあるし、理屈で攻めるも感情に訴えるも自由である。もっとも、紋切り口調で「それで一体何が言いたいワケ?」と言うことだけは避けておいたほうが無難だろう。あまり考えずにことに及んでもあまりはかばかしい結果は得られないだろうし、ヘタをするとこちらが怪我をすることもある。それだけは覚えておくべきだ。
 ついでに言えば世の中の人間全てが彼を知っているというのはありえないのだから、そもそも前提が間違っていると指摘するのもやめておいたほうがいい。この場合事実などどうでもよいのであって、必要なのは同調かさもなくば慰めなのである。そのどちらを押し出すにしても、できれば相手に悟られずに済ますほうが望ましいのは言うまでもない。軽過ぎない程度に軽妙に、ときおり冗談めかしてやるくらいが適温だろう。

あれこれ考えているうちに灰皿は吸殻で一杯になってしまった。彼もいささかうんざりした顔をしている__もしかしたら彼が洩らしたあの一言はこちらに対する皮肉だったのだろうか?コーヒーの飲みすぎで歩くと水のはねる音が聞こえてきそうでもあることだし、そろそろ潮時かもしれない。出ようか?と言ったときに彼が見せた表情は、安堵だったのか、それともうんざりだったのか。
 いずれにせよ今夜は眠れそうにない。どこか飲みにでも行くか、との提案は彼の心底イヤそうな顔に跳ね返されてしまった。はて、彼はそんなに酒嫌いだったっけか。

まったく、世の中わからないことばっかりだ。