カルボナーラの悲劇

一人暮らしの独身男と料理、というのはボールペンと犬の首輪くらい関係のなさそうな取り合わせである。蛍光灯の白々とした灯りの下、背中を丸めてじゃあじゃあ暑苦しい音を立てるフライパンをじっと覗き込んでいる霊長類ヒト科ホモサピエンス独身オスには「孤独」というタイトルこそがふさわしかろう。一言で言えば侘しい。
 けれども世の中不思議なもので、料理にこだわる男性も少なからず存在する。パスタはきっちりアルデンテ。カレーは小麦粉を炒めるところから始まって各種香辛料をずらりと取り揃えねば気が済まぬ。マクドナルドの名前を聞いただけで顔をしかめるところまでいけば立派なものだ。きっとおムコさんに行ってもお姑さんと話が合うに違いない。なかよきことはうつくしき哉。

さて、そういう人たちが幾人ほど集まって料理談義に花を咲かせている傍で、私は「よくやるなあ」と小匙一杯ほどの羨望をまぜこんだ視線を送って溜息をついている。もちろんそんな輩が「侘しさ全開文句あるか」グループに属していることはわざわざ書くまでもなく察せられることだろう。大学入学に端を発した一人暮らしも7年目に突入した今日この頃、背中に漂う哀愁もおそらく堂に入ったものになっているのに違いない。惜しむらくは自らの背中は見ることができないというところにある。
 それでも外食ばかりしていたというのでは金がかかって仕方がない。コンビニ弁当だって決して安いものではないし、そもそもいくら品数が豊富といってもやがては飽きがきてしまう。それにやっぱり自分の部屋でゆっくりと温かいものが食べたい。もちろん電子レンジは抜きにして。しかしカップ麺ではいかにも悲しい。さて。
 このような諸々の要望なり懐寂しい状況なりが積み重なってくると、不精で通っている私であっても自分で料理をするという選択肢を選ぶことがある。ひどくしぶしぶといった態で、さりとて切羽詰って仕方なくというわけでもない。やはり脳裏には華麗にかつ的確にことにあたる料理人の精悍な姿があるのだろうか。そこに自分をあてはめてみるのがどれだけ不遜なことかはわかっていても、あえて期待をかけてしまうというのがなんともはや。それに気がついてやれやれと溜息をつく。人生の何割かは切なさと悲哀でできていると思うのはそんな時だ。

ときに自炊とは言ってもレパートリーなどないに等しいのだから必然的に作るものも簡単なものに留まらざるを得ない。お湯の中にレトルトのカレーを突っ込むとか。まあそんなところ。レトルト食品を自炊と呼べるのかどうかについては呆れるほどにかすかな自尊心もあいまって諸説あるところかと思うが、まあとりたてて料理好きというわけでもない人間のやることといえば所詮はその程度だ。せいぜい気張って米を研ぐくらい。楽なものである。
 しかし個人的には和食よりも洋食のほうを好むタチなので、いつも米だけというのも少々つまらない。パンはとりあえず買ってくるにしても、さてそれと一緒に何を食べればよいのやら。こだわり派に言わせればここが思案のしどころなのだろうが、私の場合そういうときにはスパゲティをゆでることが多い。ソースはその時に応じて各種取り揃えているが、とはいえ恥ずかしながら全部缶詰というところがいかにもである。麺をゆでて、ソースを鍋なりフライパンなりでちょっと温めるだけ。つまるところインスタントラーメンを作るのと大差はないが、それでも幾分かは侘しさがまぎれてなんとなく料理をした気分になるから不思議なものだ。
 ともあれ、こういう方法をとっている限りそうそう失敗するということはない。ゆで加減にこだわればいくらでもこだわることができるだろうが、せいぜい針金じゃなければいいやという程度の舌の持ち主がやれみみたぶの固さだのと言ったところで失笑を買うのは目に見えている。勢い調理もいい加減になり、時々一本かじってみてあとはほっときゃいいということになってしまう。こうなると失敗する要素を探せというほうが難しい。

そんなわけで今日もまたスパゲティゆでにいそしむわけだ。さあお湯が沸いた。えーと、そういえばこの前は塩を振るのを忘れたままゆでちまったんだっけ。よしよし今日は忘れまいぞ。塩、塩……と。どばどば。麺はこれくらいあればいいか?そーれ投入ばらりんこ。お、うまくいったうまくいった。ちゃんと円を描いてるじゃないか俺も上手くなったもんだなあ。ゆで時間は袋によれば……11分?ま、いいやね適当で。しかし11分も待ってるのはヒマだなあ。ソースでもあっためとくか。んー、今日はカルボナーラですかね。ぐらーつぃえ。ところでカルボナーラってどんなんだっけ?……食ってみりゃわかるか。パンはこないだ特売の時に買ってきたのがあるな。お、イタリアンとか書いてあるじゃないかまさしくパスタにぴったり。素晴らしいねえ。頑張れフェラーリは確かふぉるつぁふぇるぁーり?巻き舌にするとそれっぽい発音になるな。
 脈絡のないことを考えているうちに時間はどんどん過ぎてゆく。やがてスパゲティも針金ではなくなり、フライパンのなかで缶詰カルボナーラはぐつぐつ泡立っている。ああ美味そう。ちょっと気を抜くとよだれが垂れそうな勢いである。さあ食うぞと鍋からスパゲティを水揚げし、ちゃっちゃと湯きりをした後でフライパンにどちゃ。そこで待ち構えているソースを適当にからめて一丁上がり。よっしゃよっしゃでわはははは。

随分と荒っぽい料理法ではあるにせよ、ともあれできあがってしまえばしめたものだ。皿の上に盛られたカルボナーラからはふわふわと湯気が立ち上り、いやが上でも食欲をそそる。一日の仕事を終えた身にはどんなものだって美味そうに見えるものだ。さーて、いただきまーす。

ぐはぅ。

喜び勇んで口に運んだカルボナーラはソースが煮詰まって恐ろしく塩辛かった。こんなことなら途中で一度火を止めるべきであったと思ったところで今更遅い。10分近くぶくぶくと泡だっていればそりゃいくらでも塩辛くなろうというものである。しかも適当ぶっこいてパスタをゆでるお湯に塩をどばどばいれたもんだから麺もこれまた塩辛い。その様はまるで塩漬けパスタ。うおー大失敗。誰だインスタントラーメンみたいなもんだから失敗なんかするはずがないなんて言ったのは!わかったつもりになって目分量でやるからこういうことになるのだ。しかも小匙で充分なところに丼で勘定したかのような量の塩を突っ込んだのである。くぅ、こうなったら仕方がない。電子レンジで温めた鮭の切り身でも食うか……。

ぐぎゃあ。

実家からわざわざ出てきた親が持ってきた赤魚がこれまた異様に塩辛い。その塩加減たるやまるで岩塩のカタマリである。日本列島を北上していくにつれ、漬物が塩辛くなるという話を依然聞いたことがあるが、いくら私が北海道の人間だからといってもこれは塩がききすぎだ。終戦を知らぬままに数十年もの間ジャングルの奥地をさまよった旧日本兵が、保護されて一番最初に欲したものが塩だったそうだが、もしその日本兵にこれを食べさせたとしても「マズい」と言われたかもしれないくらいにマズい。しかもこのマズさは味覚を破壊する類のマズさである。言うなればカタストロフィック的マズさ。そしてその激マズの料理を作ったのは誰あろう自分。うわぁぁぁ。
 まったく穴があったら潜りたい。もしなければ墓穴でもなんでもいいから掘る手間さえ惜しまずに潜りたい気分である。やはり料理人の幻影はあくまでも幻影だったらしい。塩を入れすぎるくらいなら塩分ゼロでヘルシーなほうがよっぽどいい。味気ないと文句をつけるのはしばらくの間やめよう。私は泣きそうになりながらそう心に誓ったのであった。

まったく普段ろくすっぽ料理を作らない人間がたまになれないことをするときには一にも二にも慎重であるべきだ。NaClというごく単純な化学組成だからといってゆめゆめ塩を侮るべからず。水に溶かせばイオン化するその性質はダテではないのである。ああ、しかしまだ半分くらい残ってるよ。うへー。
 ともあれ、その夕食において供されたレタスの消費量がいつになく大量であったことを追記しておく。