自転車賛歌

大雑把に言って北海道は広い。そして、その広い北海道ではクルマがないと暮らしていけないんだそうである。
 そして私はクルマを持っていなかったりする。
 となると私は暮らしていけてない、という状況に甘んじていることになってしまうのだが……。
 ホントか?

確かに行動範囲は決して広くないし、それを否定するつもりは毛頭ない。事実、この1年間私は仕事以外ではほとんど札幌市から外に出ていないのだ。たまの休みにも「あーあ、クルマがあればそのへん走ったりできるのになあ」などと思いつつ部屋で寝転がっていることが非常に多い。他の知り合いがちょっと思い立っただけで函館まで行ったり、週末ごとにスキーに繰り出したりするのとは比べるべくもないだろう。
 だがしかし、こんな情けない話ばかりで終わってはしろ●の名がすたる。現に私は自動車がなくたってちゃんと生きているのだ。世の中を見渡してみるがいい。クルマなど持っておらずとも立派に生きている人間のなんと多いことか。歴史上の偉人を思いつくままに数え上げてみればいい。彼らの自動車保有率はいかがなものか?そうとも、自動車がなくては暮らせない、などというのは持つべきものの単なる思い込みに過ぎないのだ。人間は一度便利な生活になれてしまうとなかなか元に戻ることはできないという。これこそがまさにその恰好の例なのである。車を持っていないのが不便なのではない。車を持っていることが便利なのである。基準を見誤っていて正しい判断などできるだろうか?否!
 しかしこれだけクルマを持っている人の方が多いんだから、ひょっとしたらそっちの方を基準にしたほうが一般的なのかも……いやいや、迷いは禁物だ。

というわけでまがりなりにだろうとなんだろうと私は暮らしていけているのである。そして車を持っていないほかの皆様がたも暮らしていけているのである。めでたい。けれどもいつもいつも二本の足だけを頼りにしているのは不便だし、公共交通機関はこちらの思ったときにすぐ来てくれるわけではないと言う欠点がある。なかなか悩ましいところだ。
 歩いていくにはちょっと遠いけど、思い立ってすぐに行動できるフットワークの軽さもほしい。ごく当たり前の欲求だと言えるだろう。そして、その贅沢とも言える欲望を満たしてくれるものがこの世の中に存在すると言うのだから驚きだ。それが

 自転車

である。随分と長い前置きの後で出てきたのが自転車というのも随分肩透かしな話だと思うが仕方ない。だが子供の頃、まだ自動車を自分が運転するようになるなどまるで百年も先のことだと思っていたあの頃に、もっとも頼れる乗り物はなんであったか。行きの上りの苦しさは帰りに下り坂の楽しさとなって返ってきた、まるで箴言をそのまま具現化したかのようなあの自転車。車よりも場所を取らず狭い道でもすいすい走るあの自転車。自らの足でペダルをこぐことが推進力となり、にも関わらず必死で走るよりもよっぽど楽に早く移動できたあの自転車。学校のグラウンドではじめて補助輪を外したあの日の晴れがましさをまさか忘れたとはおっしゃるまい。
 ともかく自転車である。誰がなんと言ったって自転車なのだ。これはどれだけ力説しても足りるものではない。許されるならば今ここで1024回くらいCopy&Pasteを繰り返してサブリミナル効果を狙いたいくらいなのだが、それはあまりにも見え透いた文字数稼ぎなのでやめておく。ちっ。

さて、そもそも自転車のどこが自動車と比較してよいのであるか。まず第一に健康的であること。クルマを買ってからめっきり自分の足で歩かなってしまい、運動不足になったという話はよく耳にする。それを補うためにスポーツジムに通ったり、テニススクールに通ったりしている人もいるそうだ。クルマを買うのに大枚を叩き、さらに運動不足を解消するために金を払う。実に結構なことである。日本経済の再生はそんな人たちの双肩にかかっていると言っても過言ではないような気がしないこともない。

次に、自転車はあまり環境を破壊しないようだ。ばしっと舗装された道路の下で幾億もの微生物が死に瀕していることを考えれば「環境に優しい」などとは言えたものではないが、それでもNOxだのSOxだのをぶいんぶいん撒き散らすことを考えればまだマシな部類に入っていると言えるだろう。自動車会社も最近では低公害車の売込みに必死だが、それでも今現在走り回っている自動車のことを考慮に入れると大気汚染の改善にはまだ時間がかかるはずである。それにくらべて自転車から出てくるのは運転手の吐き出す二酸化炭素程度。どちらがより自然な姿に近いかと言われれば、答えは火を見るより明らかではないか。第一、SOxというその名称はなんとかならんものか。「自動車はソックスを排出しながら走っています」。エグゾーストパイプから靴下を噴射しながら走っている自動車の姿を想像してみるがいい。色とりどりの靴下(木綿100%)がひゅるりらひゅるりら……。
 実にほほえましいではないか。

さらに追い討ちをかけるようにして私の自転車賛歌は続く。
 私が今の自転車を買ったのはつい1年ほど前のどんより曇った日のことだった。本当ならば中古でもいいや、と思っていたのだが、自転車販売店に並ぶ小奇麗な真新しい自転車たちを目の当たりにしてその考えはふっとんでしまった。ああ、この自転車たちは一体なんのためにこの世に産み落とされてきたのか。潤滑油のなめらかな光に飾られたチェーンは動力を伝えるため、そしてしっとりと黒ずんだタイヤは地面にグリップするために。そうだ、彼らは誰かの手だか足だかによってこの広い世の中を自由に走り回るために生を受けたのだ。自らの生きた意味を求め、人知れぬ自転車販売店の片隅でひっそりと今か今かとその瞬間を待ちわびている。ううっ、なんだか泣けてくるではないか。せめて一台でもいい、その思いを成就させてやりたいと思った私を、一体誰が攻められるだろう?

 たとえその目の端でしっかりと値札を確かめていたとしても。

なにせ自転車というのはリーズナブルな乗り物だ。昔はそうでもなかったようだが、それでも自動車の値段に比べれば随分簡単に手が届くところにあったはずだ。こだわりまくった素晴らしい自転車ならともかくとして、今私が乗っているようなごく当たり前のママチャリであれば、新品であったとしても2万円程度で手に入れることができる。しかもメンテナンス費用だって安いものだ。パンクの修理代に1000円かかって高いと文句を言う程度である。それにガソリン代わりの運転者の食事は自転車があろうとなかろうと必要なことには変わりないし、保険に入らなければいけないということもない。自転車に税金がかかったり車検が義務化されたりした日には、おそらく暴動かクーデターか革命が起こるだろう。もし今の社会は根本から変えねばならんと思っている政治家がいれば、コトは簡単である。

さて、ここまで思いつくがままに自転車がいかに素晴らしいモノであるかを述べてきた。実際、私の生活は自転車によって彩りを与えられているのである。ふと思い立ってちょっとそこらをぶらついてみようと思ったところで、自転車がなければその機動力は激減する。普段から不足しがちの運動を、それを機会にすればいいじゃないかと思えばさにあらず。そもそもそんなにあっさり運動を始めるようなことができる人間であれば、ハナから運動不足になどなるはずがないではないか。しまいには「ま、どうせほんの近場しか行けないしな。やーめた」となってしまうのが目に見えている。灰色の生活がダークグレーの生活になってしうのも時間の問題だろう。
 それがどうだ。自転車によって行動範囲は大きく広がるのである。無論クルマ持ちから見れば10センチの定規が30センチの物差しに変わった程度の違いでしかないだろうが、私に言わせてもらえばこれは大きな進歩である。それはもはや月までの距離と太陽までの距離を比べるくらいの差があるとさえ思われるのだ。
 つい先日も自転車に載って北海道大学付属の植物園まで出かけてきた。自転車で30分弱ほどの距離である。もし自転車がなかったら?徒歩で1時間近くかかるような距離を、のたのたと歩いて行くことなど、おそらくまったく考え付きもしなかったに違いない。わざわざバス代を払うなど論外である。その日は幸い天気もよく、芽吹き始めたばかりの新緑に包まれるすがすがしさを存分に満喫できたのだが、自転車がなければそれもかなわぬことだったのだ。かたや街中のオアシスで写真などを撮りつつ新鮮な空気を吸い、かたやむさくるしい部屋の中で淀んだ空気を流し込む。なんという落差であることか!
 しかも自転車には先ほどまで必死こいて力説したように様々な美点がある。さあ空気もぬるみ、いよいよ風を受けて走るのが気持ちよい季節になってきた。あちらもこちらもかなたもこなたも、皆で自転車をこぎまくって心地よい充実感を味わおうではないか。自動車で靴下を撒き散らしながら走るのはやめにして、これからは二酸化炭素を吐きまくるのが人間としての正しい姿なのである。おお牧場は緑でサイクリングやっほーなほーとらんらんらん。ある日森の中で熊さんに出会ったら、一緒に踊れるだけの脚力をともに身につけようではありませんか皆さん!

いやー、徒歩が月で自転車が太陽なら、クルマは銀河系の中心くらいですかねえ。