文は人

ワープロソフトを使って作られた文書をHTML化する作業を久しぶりにやりました。これが結構疲れる。

で、人の作った原稿をHTML化する作業がなんでこんなに疲れるのかと考えたわけですが。

一時期中途半端ながらHTMLの勉強をしまして、やれW3Cだの文章の論理構造だのをさかしらに吹聴していたこともあります。今となっては少々こっ恥ずかしいですが、文章の書き方について少し考える契機にもなったかなという気もする。
 そういう経験を踏まえつつWebサイトづくりを続けていくと、自分なりのマークアップの仕方ってのがどうしてもできてきます。ただそうなってしまうと、今回のようにワープロで作成された文書のHTML化をするときにまず「この文書はどういう構造になってるのかな」というところから入ってしまうようになっちゃうんですね。まず論理構造ありきな考え方に傾いてしまう。

ところがこういう考え方をして文書を作成する人ってのはどっちかと言えば少数派です。普通は理屈から入らずに、今まで培ってきた『経験』に全面的に依存した文書を作る傾向にあるんではないかと思うのですよ。特にHTMLってのは論文フォーマットに順ずるような構造になってまして、いわゆるビジネス文書のフォーマットとは若干異なる部分がある。そうするとHTML的な論理構造という観点から見た場合、整合性の取れない文書に見えてしまうことも少なくない。

とはいうものの、そのような文書がまるきりの無法状態だというわけでもありません。『経験』を積み重ねてきたなりのルールというものがそこにはあるんですね。しかしながら、だからこそ生じる苦労ってのがあるんですよ。論理構造がほのみえてしまうだけに、マークアップを行う際にその文書を作った人のルールを私なりに解釈しなおしていこうとしてしまうのです。これでまるっきりぐちゃぐちゃな文書ならかえって機械的にやっちまえって気分にもなるんだけどなあ、とか思いながら。

しかしいくら解釈しなおそうと思ったところでそこは所詮異なるルールを用いている者同士。どうしても衝突が発生してきます。ぬお、いったいこれはどういう構造になってるんだ。ああそうか、ここはこういうルールになってるんだな。ちょっとまて、ここは整合性が取れてないから手直ししたほうがいいんじゃないか。そうなってくるといけません。やってることは単純なコンバート作業のはずなのに、気分はまるで翻訳。

そんなことやってりゃ疲れるわけだ。


文は人を現すとも言います。そう考えてみると、この苦労ってのはそのまんま他人を理解することの難しさということにつながってくるんじゃないかという気さえしてくるんですな。単に読むだけでもその人を理解することにつながるって面はあって、だからこそ読書なんて習慣が存在するわけです。これをさらに一歩進めて、相手のルールを自分なりに解釈していくとなるとどうなるか。相手を自分のルールにハメこむだけではなく、時にはこちらのルールを少々破ってでも妥協点を探っていくという工程なんか、なかなかにそれっぽいんじゃないかと思うんですけどね。

しかしなんだかんだで疲れちまうのもまた事実なわけで、同じ日本人同士で同じ日本語の文書だってのにこうなんだから、法律や慣習の違う外国の人とのコミュニケーションってのはもっと大変なのに違いない。とも考えてしまいます。うへー、翻訳家ってのは偉大だ。国際人ってのは神様だ。

いくらなんでも話を飛躍させすぎじゃないかと思いますけど。

ただまあ、これって疲れるだけの話でもないんだろうなあとも思いますよ。文が人を現し、そこにあるルールと自分のルールとの間の整合性を測ることってのは、すなわち他人を理解することにもつながってくる。こういう書き方ってのもあるわけね、と翻って自らを省みる契機にだってなる。そういう作業ってのもなかなか楽しいもんじゃないかと思うんですが、どんなもんでしょうね。

極端な話、これって新しい『関係』を構築するって作業だともいえるんだろうなあ、とか考えてみたりもするわけです。これがイヤだってのはよほどの偏屈か人間嫌いに違いない、とか。そこまで自説にホれこめるってのもずいぶん楽観的な野郎だなって気はしますが。


えー、しかしですね。こんなことを考えているから仕事が遅々として進みません。どうしましょう(泣)。