ジャン=フィリップ・メルケール デビューリサイタル

Kitaraの第6代専属オルガニスト、ジャン=フィリップのデビューリサイタルである。と、馴れ馴れしい上にそのまんまの説明で幕を開けてみた。写真で見る限りではオトナしそうなお坊ちゃんといった感じのジャン=フィリップであるが、果たしてどうなのだろう。
観客の入りはそこそこである。5〜6割くらいか?モニカ・メルツォーヴァのフェアウェルリサイタルはかなりの人入りだったのだが、これから1年でどれだけ聴衆を集められるようになるのかしらん、とふと思う。で、いよいよ開演。
まず絵に描いたようなお坊ちゃんな立ち居振舞いでびっくりした。身長は高いのだが、ひょろっとしているという感じ。なで肩でいかにも覇気のなさそうなお辞儀をしている。いきなりこういうことを言うのはなんなんだが、成績はいいけどついイジメたくなるようなオーラをまとった人である。なんか指先まで神経が行き渡っていないようにすら見えるのだが、大丈夫なのか?という気分になってしまった。
不遜もいいところである。
まずはバッハから。プログラムはバッハ、モーツァルト、ヨンゲン、フランク、ヴィエルヌと進んでいく。バッハ以外のオルガン曲ってなかなかなじみがないんだが、さて。
演奏しているところを見ていると、どうやら先代のモニカ・メルツォーヴァのようにパッションを全身で表現するという感じではないようだ。入り込んではいるのだけれど、それがこちらまでは伝わってこないという感じ。挨拶しているところを見ていてもあまり表情が変わらないし、ストレートに感情を表に出すというタイプではないようだ。コケットリーとは縁がない。むむむ、ますますイジメられっ子なイメージが湧きあがってきてしまう。ただしさすがに賞をいくつも取っているだけあって、演奏にはまるで危なげがないように聴こえた。テクニックは折り紙付きということか。
さてそう考えてみると、もとよりオルガンというのは感情表現のしづらい楽器だといえる。ピアノではタッチで、ヴァイオリンなどの弦楽器ではボウイング(弓使い)、管楽器では息遣いによって音に強弱をつけ、音楽に表情をつけることができる。けれどもオルガンではなかなかそうはいかない。音の強弱はペダルでつけることができるが、足でだって鍵盤を踏みまくって演奏しなきゃいかんのがオルガンだ。
とすると、オルガンではパッションを前面に押し出すよりも、形式に則った音楽を奏でるほうが一般的なアプローチの仕方なのかもしれない。テクニック偏重、というとなにやら聞こえは悪いが、その意味するところは他の楽器とはおのずから異なってくるように思う。感情を剥き出しにするばかりがよいのではない。感情を抑制するもの、それはすなわち理性である。ジャン=フィリップの音楽とは、つまり理性の音楽なのである。そんな彼には近代理性の先駆者であるデカルト、カントと時代を同じうしたバッハの音楽こそが相応しいといえるのではないか。
……つっても理性の音楽で大向こうをうならせるってわけにはいかんよな。天井桟敷に向かって演奏する、なんていい方もあるのだが、これは天井桟敷の席しか替えないような庶民層に受ける__つまるところシロウト受けする演奏を揶揄した言葉である。そしてあいにく私は天井桟敷の人々だ。うーむ。とりあえず隣の家族連れらしきご一行は一瞬4人全員が寝てたぞ。いや、わざわざ2,000x4円払ってみんな寝ちまうってのは、それはそれでスゴいと思うが。
そんなことを考えていたらいつの間にやら照明が明るくなってしまっていた。ありゃ、もう終わってしまいましたか。えーと、次は12月20日のクリスマス・コンサートになるのかな。その前に一度ファッサン・ラスロのコンサートもあるし、聴き比べをしてみるのも面白いかもしれん。そんなことのできる耳があるとも思えんから、とりあえず雰囲気で比較しちまうことになるんだろうけど、いいのかなあ。なんかとても失礼なことをしているような気もする。
ちなみに今回はチケットの電話予約をしておいたのだが、当日になって開場時間がわからずに往生した。KitaraのWebにも開場時間は書いてなさそうだし、なるほどこれがチケットが手元にないことの不安か。