UMOJA

肝心のUMOJAについてなにも書いていないことに気が付いた。昼夜逆転の生活にすっかり体がなじんで寝られないので感じたことでも書いておくことにする。
NHKのサイトによれば、UMOJAとはスワヒリ語で「団結・結束」を意味する語とのことだ。舞台はまず南アフリカ民族の伝統的な音楽・舞踏から始まり、その後ゴスペルやジャズなど、現代文化と融合していった様が時代を追って次々と演じられる。そして最後には故郷とでもいうべき伝統的なところへと回帰してゆく。そこでは様々な歴史において形を変えた音楽・舞踏のメンバーが勢ぞろいし、高らかにリズムへの賛歌を歌い上げる。
いずれの音楽においても共通するのはその鮮烈とでもいうべきリズム感だろう。ブラウン管を通じて希釈されたとはいえ、それは見る側の心の奥底に眠る躍動を奮い起こす。カーテンコールの後にはスタンディングオベーションとなり、そればかりでなく観客までもがステージに上がってメンバーとともに踊りだしてしまうのだが、それもむべなるかな。実際にあの空気を共有していれば、踊りだしたくなる衝動を抑えることは難しいだろう。こういうのを見ていてつくづく感じるのは、なぜ自分がそこにいなかったのかという悔しさだ。
もちろん融合の過程において、甚だしい西洋化が行われたことを忘れてはいけない。西洋化によって消えていった部族、消えていった音楽、消えていった文化がどれだけあったのか。そのことはたとえ西洋人ではない我々にとっても背負わなければならない哀しみだろうと思う。もしかすると、罪でさえも背負う必要があるのかもしれない。間違いなく、文化の喪失は人類全体にとっても損失だったはずなのだから。
しかしながら、形を変じたとはいえ彼らの持っていたリズム感はしたたかであった。形を変えながらも特筆すべきリズム感は種々の音楽に根底に流れつづけたのだ。現代、いわゆる黒人の音楽と呼ばれるものに共通するのは、強烈なまでのリズム、ビートの存在だといえるだろう。舞台中の台詞を借りるならば、彼らの音楽・舞踏はまさしく『ホット』である。聴けばおのずから身体を動かしたくなる、魂の共振を喚起するものだといえる。
UMOJAで演じられる音楽・舞踏は、スタイリッシュ、ファッショナブル、ソフィスティケイトなどによって表されるいずれの意味においても洗練されたものではない。しかしながらその『ホット』さは確かに我々の魂を揺さぶってやまない。それはなぜだろうか。思うに、UMOJAはこれらの音楽・舞踏の持つ原初性に根ざしているのではあるまいか。音楽・舞踏はそもそも喜怒哀楽という感情の発露として生まれたものだ。
近現代においてそれら剥き出しの感情は野蛮であるとされ、幾重もの衣が着せられていった。その最高峰として位置するのがクラシックというジャンルである。しかしながら、そうして西洋において長い時を経て覆い隠されてきたナマの感情が、UMOJAではまさしくナマのまま供される。もっとも本質に近いところにあるのだから、なるほどしたたかなわけだ。たとえジャズやゴスペル、ヒップホップに変わろうとも、原初性をそう簡単に覆い隠すことなどできない。
現代において商業と密接不可分に結びついき、絶え間なく流されつづける耳障りがよいばかりの音楽にどっぷり浸ってしまった我々は、かようなもっとも音楽的な音楽から長らく隔絶されてきていた。それゆえ、UMOJAによって惹起される魂の揺さぶりに狂喜せざるを得ないのである。だからアフリカの大地を遠く離れたBunkamuraオーチャードホールであっても観客がステージに登って踊り狂える。いささかまわりくどく、皮肉なことであるとはいえ、それは幸福なことなのだと思う。
こういうのは実際に見てみないと本当のところは伝わらない。観客のひとりとして、舞台に参加してみなければ本当に味わうことはできない。振動する空気と響き渡るリズムはその場限りで消えゆくものである。だからDVDよりも舞台のチケットのほうが高い。日本のチケットはいささか高すぎるとはいえ、いやはやなんとも羨ましい限り。中年のサラリーマンらしきおっさんがステージ上でUMOJAのダンサーと向かい合って腰を振っているのを眺めつつ、つくづくそう思った。歌え、踊れ。様々な世のしがらみの中でいつしか圧しつぶされつつあった感情を生き生きと、高らかに空の高みへと開放せよ。
それこそが生きるということなのだ。