イカロスの墜落__断絶する世界


休暇を使って上野の国立西洋美術館で開催されている「ベルギー王立美術館展」へ行ってきました。いくつかの作品を見てちょっと考えてみたりしたので、せっかくですから記録をとっておこうと思います。
今回はブリューゲルの「イカロスの墜落」について。
といっても美術のことなんてほとんど知らないので、大したことは書けませんけどね__そもそもブリューゲルの名前だって知らなかったくらいなんです。Wikipediaで調べてみて「バベルの塔」や「雪中の狩人」はなんか見覚えがあるかも、と思った程度ですから、まあその程度のヤツがなんかテキトーなこと言ってるよ、とか思って頂ければ間違いはないでしょう。ふーん、16世紀の人なんですか。ルネサンスの頃だなあ確か。
と、ひとしきり言い訳をしたところで本題に戻ります。「イカロスの墜落」については、そもそもがブリューゲルの筆になるものかどうかという議論もあるらしく、実際の展示では「ブリューゲル(?)」みたいな表記になってました。まあ500年近くも昔の話ですからして、そういうこともあるんでしょう。とりあえず今回はそのあたりはあまり気にせずに進めていきますけれども。
タイトルになっているにもかかわらず、この作品の中でのイカロスは非常に小さな存在でしかありません。画面の右下で、海に落っこちた瞬間の脚だけが見えている。扱いとしては手前の農作業に従事する農民の方がよっぽど大きいわけです。実際この絵に対しては、神に対する人間の冒涜から発して、分不相応な望みを持つことや、思い上がりへの戒め__といったイカロスの故事から導かれる解釈の他に、「人が死しても、鋤は休まぬ」というネーデルラントの諺を当てはめるという考え方もあるようです。
 はあなるほど、とは思います。イカロスの故事から得る教訓はまあ王道といいますか、文句の付けようもないですけれども、とはいいつつも作品中での扱いの小ささはやはり気になるところ。そこからして「人が死しても、鋤は休まぬ」というように、農民側の立場に重きを置く解釈をしてみる、というのも至極まっとうな考え方だと言えるでしょう。
でもなあ、そこまで言っておいてなんですけれども、「人が死しても、鋤は休まぬ」って一体どういう意味ですか?というごく基本的なところからして私にはよくわからなかったりします。誰かが死んだからといって農作業を休むわけにはいかない、なぜから作物がダメになっちゃうからネ!ってことなんでしょうか?あるいは一生懸命働いていたら誰かが死んでいても気が付かないものなんだヨ仕事をするってのはそれくらい集中してなきゃダメなんだネ!とか?うーん、単なる諺としてはそれでよいですが、この絵の解釈ってことで言うとなんかすんなり飲み込めないなあ。
だってさー、それじゃあまりにもイカロス関係なさすぎですよ。
イカロスの墜落といえばギリシア神話として語り継がれているくらいのオオゴトだったりするわけです。それが農作業の心得だとか、労働における集中力の大事さってところと結びつくのはなんか一段飛ばされてるような気が。いや、諺の持つ意味を軽く見ているわけではなく、単にバランスが悪いと感じてしまうってことなんですけれども。
個人的にはそれよりもむしろ、イカロスが墜落したことに対して農民がまるで注意を払っていないように見えることの方が気にかかりました。イカロスが落っこちたところと農民がいる場所ってのは距離的にそれほど隔たっているようには見えませんし、だとしたら農民はイカロス墜落に気付くことは十分にできたはずです。にもかかわらずそちらの方にはまったく注意を払わずに黙々と農作業を続けていたり、あるいはまるで違う方向に目をやっていたりする。
つまりその瞬間、おのおのの世界は断絶しているのではないか。
そう感じるのは、それほど無茶な発想でもないんだと思うのです。なんというか、農民の態度からは世事に対する無関心さのようなものがうかがえるんですよね。ミノス大王とダイダロスとの確執だとか、それに巻き込まれたイカロスの悲劇。蝋で固めた鳥の羽根を使って脱出するという一大スペクタクル。そして調子に乗って飛びすぎてしまったイカロスが、その羽根を太陽に溶かされて墜ち行くサマ。すごいですねー燃えますね。ワクワクドキドキですね。
でもさ、結局そんなのは俺とまったく関係ないところで起きてるスキャンダルにすぎないじゃねーの。
そんな一言によってすべての関係は閉ざされてしまいます。無関心ほど深い溝というものもないわけでして、そうやって生じた断絶は、農民のまさに目の前で起こった「墜落」という大事件によってさえも埋められることはない__この絵にはそれが端的に示されているように思われます。
とするとこの作品において、農民のほうがデカい扱いを受けているのはむしろ必然であるということになるんですよね。画家が注目したのが「断絶」であるのだとすればこそ、事件の渦中にいるイカロスではなく、その外側でまるで無関心な素振りを見せている農民を描くことのほうが、より効果的に主題を描き出すことにつながると考えられるのです。
もっともブリューゲルの活躍していた16世紀において、「断絶」ということがどれだけ問題になっていたかはわからないですけどね。ある意味時代を問わない普遍的な現象ではないかとは思うものの、それがより先鋭的に現れているのはおそらく我々が生きている現代に他ならないのです。アパートの隣の部屋に済んでいる人や、電車の中でたまたま隣り合わせになった人__あるいはテレビの中で繰り広げられている様々な世界__それらがすべて自らと同じ世界の上に存在する「現実」なのだということを、どれだけリアリティを持って想像しうるのか。正直言って、私はまったく自信がありません。
そうやって各々の世界が断絶していることがよいのかどうかってのはまた別の話だったりしますけどね。個人的には「断然」はある種の必然であって、現代においてこれが問題視されるのは、単に以前に比べてその状況に我々が気付きやすくなっただけなんだと思いますけれども。それはそれで考えてみるだけの価値がある話なんでしょう。
まあこれはあくまでもブリューゲルの「イカロスの墜落」についての感想文なわけですから、このあたりまでで止めておくのが吉でしょう。「断絶」ということを読み取るのが良い感想なのかどうかはわからんですが、まあそんなことを感じてしまったんだからしょうがないね、とかそういうことでひとつよろしくお願いします。