レナードの朝を観る

精神病院に赴任した医師セイヤーは、体を自由に動かせない患者たちにボールを受け止める反射神経があることを発見。さらに、30年間も半昏睡状態で病院暮らしを余儀なくされていたレナードに新薬を投与することで、彼を奇跡的に目ざめさせるのだが…。

というあらすじを読んで、なぜか「アルジャーノン」を連想してしまいました。が、実際観てみると全然違う(当たり前だ)。レナード役のロバート・デ・ニーロ頑張ってるなあというか、本当にそういう病気の人にしか見えませんね。俳優ってすげえと思わせられます。セイヤー医師を演じたロビン・ウィリアムズも、優しいけどちょっとヲタ、な人柄をしっかり表現してます。
本作は1990年の公開(日本では1991年)です。でも、観た感じとしては、もっと昔の映画だと言われてもすんなり信じちまいそうですね。語り口ってんですか、全体の流れが非常に淡々としていて、パっと見起伏に乏しいように写ったのです。それがなんだか昔の映画っぽいぞ、と。
撮る人によっては、回復したレナードと母親との面会のシーンや、レナードとポーラがダンスを踊るシーンで、もっと盛り上げようとするんではないかと思うんですよ。特にポーラとのダンスのシーンで、踊っているうちに痙攣が納まっていくあたり。これ、一番の泣かせ所だよなあ。ついセリフで補ってしまいたくなるんじゃないですかね。
実話に基づく作品ってことですから、そのへんはあまりやりすぎないようにしたのかもしれません。度がすぎれば興ざめだし、かといって説明が足りないとわかりにくい。難しいところです。
個人的に一番印象に残ったのは、レナードが痙攣の発作を起こしながらも「(僕の症例に)学べ、学べ」と言っている場面。新薬の効果で劇的な回復を遂げたレナードですが、その効果は持続せず、再び痙攣に苦しめられます。セイヤー医師をはじめとする医療スタッフの必死の奮闘を見ながらも、再び沈黙の世界に沈んでいくことは避けられないと、彼には痛いほどわかっていたのでしょう。
そのような状況の中、突然の発作に苦しみながらも先のような言葉が出てくる。壮絶なまでの自己犠牲の精神!そう言ってしまえばミもフタもないですが、自らの置かれた状況の中でなしうる最善のことはなにか、それを考え抜いた結果の叫びではないかと思われるのです。それが感じられるからこそ心に残る場面になる。
加えて言えば、そこに至るまでの経緯の中にもそれを活かすことになる箇所があります。あまりにも劇的な回復によって、レナードは一時的な躁状態に陥ります。その状態で完全に自由な外出を求めるも、医師達は経過観察に慎重でそれを拒否する。それを不服としたレナードは、問題のある患者たちを扇動して反抗的態度を示すのです。鮮明な対立の構造ですね。それを乗り越えて自らを症例として差し出すことになるわけでして、これは効果的だなあと感じます。
さて、本作は通して見終えた後にもなお、考えさせられる映画であることは確かです。数十年にも及ぶ空白期間を抱えて「回復」することが、本当に患者の幸福に繋がるのかどうか。ひとりの患者が「ペテンにあったみたいだ」とこぼしますけれども、その一言にこの問題が集約されている。それでいてなお、セイヤー医師は治療の試みを続けていくわけです。それは一体なにゆえのことなのか。
失われた歳月に打ちのめされながらも、ひとときの生を謳歌したレナードの存在がやはり浮かび上がってきます。回復が幸福を意味するのか、あるいは異なる種類の悲劇を呼ぶものかはわからない。それは患者自身に委ねられるものです。医師にできることは、彼らを「幸福か不幸かを感じられる状態にする」ことだけなのでしょう。それはつまり、生きる人形であった患者たちの人間性を取り戻すことに他なりません。
幸福を享受することはもちろん、不幸を嘆くこともまた、人間らしい営みなのです。それは表面的な幸・不幸を越えて患者たちに等しくもたらされるべきものであり、そのために最善を尽くすことこそが、医師のなすべきことなのだ。セイヤー医師はそう考えたのではないか。そんなふうに思います。
あちこちのレビューを見ると「泣いた」って人が多いですね。私の涙腺は約2時間を耐えきりましたが、淡々とした語り口もあいまってしみじみといい映画だと思います。