「大衆の反逆」雑感(3)

国家論。国民国家という形態が過去にギリシア・ローマに見られたような都市国家とどのように違っているかについての推察がなされる。それは種族・言語あるいは国境による統一ではなく、ある一つの「未来」に向けての統一であり、先にあげたような諸要素は統一を強固にするためのものなのである。このあたりは非常にヨーロッパ的な考え方だろうと思う。少なくとも日本においてはこのような考え方は生まれなかったのではないか。ここには日本における地理的条件のみならず、鎖国による影響が暗い影を落としていると感じざるを得まい。さらに現代においては未だに残る第二次世界大戦時の大きなしこりもある。さらに世界に目を転じてみれば、今でも世界各地で民族間における対立が見られるわけであるが、このような国民国家はそれを超越した概念であるという。国民国家が一つの目的に対する団結であるのに対し、民族国家は血筋によってのみ立つ閉鎖的な国家であり、都市国家は城壁の内側に引きこもるやはり閉鎖的な性質を持つというのだ。
ではその「先進的」な諸国家によってなるヨーロッパが抱える問題とはなにかという点で、個人の力が増大し、既存の国家が「牢獄」となった事実が指摘される。そこで必要とされるのが「超国民国家」だが、ではその超国民国家とはいかなるものであるか。そこで先に国民国家がいかなるものであるかとされた話にオーバーラップしてくる。すなわち一つの統一的事業__国民が一丸となりそこに従事すべき事業の提唱こそが必要であるという結論になる。大衆の反逆とは従うべき統一的事業もなく、国家は牢獄としてある時代における諸問題の発露だということなのだろう。その大衆が再び統一的事業へと邁進し、その実現のために自らに規範を課すことこそが、暴力的な大衆による破壊を留めるもっとも公明な道なのである。本書においてはそれがスラブ的モラル__共産主義と対置されているが、すでに壮大なる実験室が瓦解してしまった現在においては不必要であろう。それよりはむしろ、ヨーロッパにおける超国民国家としてのEUの存在、日本における「大衆の反逆」を見つめることこそが急務であると感じた。