ピカソ展 〜臆面もなく感想を述べる

というわけで実際に観てきたわけだ。狙いどおりそれほど人は多くなかったので、まあよかったよかった。
今回は「〜幻のジャクリーヌ・コレクション」ということで、ピカソが70歳の時に出会い、以後20年の間、彼のミューズ(女神)であり続けた(らしい)ジャクリーヌ・ロックが受け継いだピカソ作品がまとめて展示されている。出会った当時のジャクリーヌが26歳であったというから、ピカソというのも相当な絶倫ジジイである。そういうことをするから若い男が売れ残るのです。
ともあれ、内容は油彩・素描・彫刻などが展示されている。プログラムから引用すると「美しさと醜さ、写実とデフォルメといった相反する要素を貪欲に飲み込み、軽やかにメタモルフォーズ(変身、変容)を繰り返したピカソ」とある。なんだか随分節操のない話にも聞こえるが、なにせ相手はピカソである。ここは「ピカソにとって、技法とはあくまでも自己を表現するための手段に過ぎず、従って貪欲なまでに変容を繰り返したその過程を追うことは、彼が『真の表現』を求める上でいかに思慮し、懊悩したかを知る手がかりとなるでしょう」とでも書いておくと利口そうに見えるかもしれない。
展示されているのは素描を除けばほとんどが抽象画の作品である。実のところこれだけの抽象画を見る機会に恵まれたのは初めてなのだが、なんというか抽象画は疲れますな。写実的な作品であれば、表面だけを眺めて「あー綺麗ですねー」とか言ってもなんとかなるのだが、抽象画はそれを許してくれない。ここはなにを描いているのか、ここはモデルの内面をどう捉えた結果なのか、とつい考えてしまい、1枚にかける時間が長くなる。そして最後にたどり着く前にバテる。
まああまり難しいことを考えないほうがよいのかもしれない。岡本太郎がいうように「芸術とは感じるもの」なのだと考えれば、コ難しい理屈は不要である。だが、ついあれやこれやと考えてしまい、そこに囚われるのが素人の悲しさというものだろう。まあ、わざわざ日記になにか書こうなんて考えず、ごく個人的な体感としておこうと思うのであれば苦労はしないんだろう。あえて言葉にしようとするから大変なメを見るのである。

個人的な抽象画の見方にかんする覚書

ともあれ、従来の写実画からなにゆえ抽象画が興ったのかを考えてみるとちょっと面白いかもしれない。勝手に色々書いてみることにする。
写実画では捉えきれぬもの、それが問題だったのだろう。いわゆる「芸術」としての絵画を考える場合、職人的な写実ではなく、いかに対象ないしは画家本人の内面を描くかが近代絵画の問題だったといえる。
実のところ、この時点で既になにがしかの矛盾はあったのかもしれない。人間の内的世界を描くのに、視覚によって得られる外的な世界を介する以上、描かれた内的世界は2次的なものにとどまらざるをえない。通常我々が捕らえる世界とはそのようにして成り立っているものだ、といえばそのとおりであるが、それでは満足しきれぬものがあることもまた事実である。内的世界という「本質」をありのままに表現することはできないか。心臓を鷲づかみとし、血潮をその身に浴びることによって命を知るがごとき欲求がそこにはあったのかもしれない。
だが、よりダイレクトに内面を描こうとした場合、写実的手法ではどうしても表面の造型に囚われるという意味において限界がある。無論そこでもマチスに代表されるフォビズムの手法、ルノワールなどの印象派絵画、ゴッホのような自らの感情を対象に投影する手法などが取られたのだが、そこにもう一つの手法として現れたのがシュルレアリスムであると考えるとよいのかもしれない。
今回のピカソ展で焦点の当てられたキュビズムの手法とは、言うなれば「対象の解体と再構築」ということになるだろう。内面を直に描くために、外的世界である「対象」を一度バラバラにしてしまうのである。そしてそのようにしてキャンバスの上に描かれた世界は、グロテスクなまでに我々に対して自らの内面をもって妥協なしに向き合うことを要求する。
そんなのが何十点も並んでるんだから、そりゃ疲れますわな。絵画の見方は人によりけりであるが、抽象画はそれこそ人の数だけ解釈の仕方がある世界だと思う。描かれているのは画家の内的世界だが、それを鑑賞する上で問われるのは、むしろ我々個々人が抱える内的世界なのではあるまいか。

「現代」の潮流

さて、絵画においてこのような変化があったわけだが、現代においてはさまざまな分野において似通った試みが行われたように思える。哲学におけるマルクス理論やその後に興ったポストモダニズム、数学ではゲーデル不完全性定理、物理学のハイゼンベルグ不確定性原理などのことなんだが、これらに共通するのはいずれも「近代の破壊と再構築」だったのではないか。
だとすれば、それらの試みがここ100年ほどの間に相次いで起こったことは果たして偶然なのだろうか。
いずれの世界においても「天才」が多く集うところであること、分野は違えど、彼らが互いに少なからぬ影響を与え合ってきたを考えてみると、どうにもこれは必然なんじゃないかという気がする。
ルネサンスに前後して始まった「近代」が、その出発点からある一定の距離を駆け抜けて差し掛かった曲がり角というのが「近代に対する懐疑」であり、その結果生じたのが「近代の解体と再構築」なのだとすれば、その後ではどのように世界が捉えなおされてゆくのかが問われることになる。解体され、再構築された近代に加え、我々は新たに「現代」を構築してゆくことになろう。
それがどのようなものなのかを見てゆくのが「天才」じゃない自分にとっては精一杯かなー、と思う。というか、ここまでやってようやく「現代」を捕らえるためのスタートラインなんでしょうな。とすると、スタートラインに立つ前にやっておかなきゃならないことがもっとたくさんありそうな気がしますよ。ひー。