勝利するのは理念と実現手法の連合軍である

去年の7月に書かれたものを今さら読んだ。セマンティックウェブWeb2.0の関係にハイパーテキストとHTMLの関係をなぞらえ、そこから「Blogはフロー、Wikiはストック」という話がごく短期間の間に何度も繰り返されていることに触れて、その繰り返しの中でテクノロジーが普及・発展していくところに思いを馳せている……と勝手に解釈させていただいた。
で、相も変わらず論旨とはあんまり関係ないところが気になってしまう。それが以下の一文。

歴史において勝利してきたのは清廉潔白より下世話でベタベタのほうが多いのではないか

理念としてのセマンティックウェブが「清廉潔白」であるのはいい。Web2.0で括られる技術が実用性を重視しているというのも多分その通りだろうと思う。ただ、この両者の関係って勝敗がつくような関係ではないんじゃなかろうか?
「清廉潔白」と「下世話でベタベタ」をどのように捉えるのかは人によって違うのかもしれないけれども、たとえばセマンティックウェブWeb2.0ってのは「理念」と「実現手法」なんじゃないかと私は思う。ハイパーテキストとHTMLも然り。
だとするとこの両者は相互補完的なものなのではないか。実現手法の伴わない理念は地に足の着いていない理想論だし、理念の伴わない実現手法は時として道を踏み外す。こういうところでたとえ話を持ち出すのはよくないかもしれないが、自動車におけるエンジンと車輪みたいなものだ*1。どちらを欠いてもクルマは動かない。
もし「勝利」という言葉が「普及する」ことを意味しているのであれば、上のように考えたときに勝利するのは誰なのか。それはセマンティックウェブという「理念」でも、Web2.0という「実現手法」でもなく、両者の連合軍だということになるのではないか。そういう考え方はできないだろうか?
もちろん理念を実現する際には世の中に合わせた変更が必要になるわけで、それこそ「下世話でベタベタ」なことにもなるだろうし、それをもってして「理念」を提唱した側が物言いをつけたくなることもあるだろう。けれども様々な紆余曲折を経ながらも先へ進んでいけるのなら、それはそれで悪いことじゃない。それが端的に言い表されているのが「WWWのレベルの低さには失望しているけれど、私がずっとやろうとしていたことが実現しつつあるのは、本当に驚きだ」というTed Nelsonの言葉なのではないか。
そういう考え方をすると、vaporwareというものにもそれなりの意味を見いだせるのかもしれないなあ。もちろんそれを悪用して詐欺まがいのことをしちゃいかんのだが、抽象的でわかりにくい「理念」を少しでもわかりやすく説明するための手段としては有効なのかもしれない。つまり「たとえ話」としてのvaporwareだ。
それはともあれ、全人類が哲学者であったためしが過去になく、そしておそらくはこれからもないように、清廉潔白な理念が人口には膾炙することはおそらくないだろう。けれどもその魂はなにがしかの実現手法に乗って確かに世の中に届く。そうやって「勝利」するモノがひとつ増えるたびに、世の中は少しずつ動いてゆく。楽観的にすぎる物言いかもしれないけれども、そう考えると世の中がもうちょっと明るく見えるんじゃないだろうか。
……なんか人の話をダシにして勝手なことを言いつのってしまったような気がするなあ。

*1:実際にはWeb2.0も多分に概念的なので、実際の車輪はBlogやWikiのツールであり、Web2.0はせいぜいトランスミッションだ、と言うこともできるかもしれない。まあたとえ話ばっかりしていてもしょうがないけど。