しらたまこの木

なぜか神田で飯を食うことになった。「こばら」という店。味付けは比較的あっさりめだが、いくらの醤油漬けにほんのりゆずの香りがしたりと、ちょっとした工夫がされていておいしい。
ところがデザートとして頼んだ白玉ぜんざいがなかなか出てこない。もっとも注文したタイミングも遅かったので、待つのは仕方のないところ。のんびりしていればいつかは出てくるだろう。
そのうちきっと今頃十勝まで大豆を取りに行っているんだ、という話になった。間を持たせるためによくこういうヨタ話が出ることがある。そうかもしれませんな。きっと今頃チャーター機三陸沖あたりを飛んでるんでしょう。十勝だとあずきの収穫時期は9月くらいって話もあるが、まあ直接農家から買い付ければいいだろう。
とすると、他の人は今頃白玉粉の収穫にも行っているかもしれませんな。
白玉粉の植付けは初夏に行われるそうだ。芽を出す頃にはちょうど暑さと重なって、鮮やかな若葉は日ごとすくすく育つ。8月中旬にもなると人の背丈を超えるほどになり、その頃には目にも眩しい真っ白な花が咲く。盛夏でも緑色は濃くなりすぎず、見た目にも爽やかなんだそうだ。香りはかすかに甘くそよぐ程度。
もっとも白玉粉はよく水を飲むのでこまめな水やりはかかせない。害虫の駆除なんかにも手を焼きつつ、その折々に受粉の作業もやってしまうので、農家は夏の間は目も回らんばかりの大忙しになるそうだ。
やがて秋の声を聞くようになるといよいよ肝心の実がふくらんでくる。しおれた花の後ろについていた袋が徐々に大きくなってくるのだ。この袋、はじめは茎と同じように堅いけれども、ふくらむにつれて薄くなり、最後は枯れて茶色くなることもあってまるで紙のようになる。昔懐かしの茶色い紙袋みたいな感じといえばわかるだろうか。蔦のようなヒモがきんちゃく状にからまっているのがなんとも愛らしい。
手に持ってしっかりとした重みを感じるようになったあたりが収穫時期。今でもひとつひとつ、手作業で優しくもいでやるらしい。なにせ白玉粉の袋はデリケートだから、ちょっとでも乱暴に扱うと破れてしまう。おかげで機械化はなかなか進まない。
さて、収穫された白玉粉袋のヒモの部分をそっと緩めてやると、中から真っ白な白玉粉が流れ落ちる。その鮮やかさはまるで真夏に凛と咲いたあの花のようだと言われており、手触りも実になめらか。やはり手間暇掛けて収穫された白玉粉は大量生産されたものとは比べものにならないそうだ。
しかし今までの話からもわかるとおり、白玉粉の栽培には何分手間がかかる。そのためコストがかかってしまうのが難点で採算が合わずに白玉粉の栽培をやめてしまうところも最近は多い。加えて安価な輸入物の攻勢もあって、国内の栽培農家は現象の一途をたどっているそうだ。白玉粉袋には虫がつきやすく、収穫間近の袋が次の日には空っぽになってしまっていることも少なくない。収穫が近づくとピンセットを手に白玉粉畑を歩き回る日々が続くそうで、そんなところもコスト増の一因になっているそうだ。その点人件費の安い中国産の進出がここ数年目立つのはどこの業界でも同じらしい。
ところで、白玉粉は日本では単年で枯れてしまうのだが、より温暖な土地では冬でも枯れずに残るらしい。5年もすると立派な白玉粉の木になるそうだ。中には樹齢30年を超すものもあって、秋になると風に吹かれて白玉粉袋がゆらゆら揺れる光景が見られるんだとか。もっとも大きくなりすぎてしまったものは味も大雑把で手触りもざらついており、食用には使えない。そのせいで晩秋になると白玉粉袋が自然に破れ、辺り一面をまるで雪のように白く染めるらしい。もっとも目にはいるとかなりイタいし、ツブが細かいので服の隙間にも入り込んでしまって洗濯が大変なので、地元の人たちにはあまり歓迎されていないらしいが。
けれども青空にむかってすっくと立つ白玉粉の木。なんとも味のある風景に思えますな。
そんな話をしている間に白玉ぜんざいが運ばれてきた。国産かどうかはわからないけれども、農家の人が節くれ立った手にピンセットをもって畑をうろつきまわるなどの手間暇をかけて作られたものなのには違いない。その営みに感謝しつつ、晴れ渡る秋の空にゆらゆら揺れる白玉小袋に思いをはせて。
いただきます。

Web2.0を必要とする人

梅田望夫氏のBlog。
深くなるほど、と思ったのはWeb2.0が「理論武装」だというあたり。
以前ヨタった時に、つらつらと文章を書きながらも「Web2.0を誰が必要とするのか?」と思っていたのだ。
具体的な技術ではない、概念的な存在であるWeb2.0という呼び名は、サービスを利用する立場のユーザーには必要ないだろうし、実際に個々のサービスを実装する立場にある技術者にもそれほど必要ないのではないか。この考え自体は今でもそれほど変わらない。もちろん知っているにこしたことはないだろう。けれどもユーザーが選択を行う際に重要なのは、そのサービスが自分にとって必要なのか、便利なのかということであって、Web2.0かどうかではない。技術者が実装をする際においても、そのサービスがWeb2.0かどうかで実装方法が変わるということもないだろう*1
けれども

加えてオライリーをはじめとする論客による「Web 2.0」つまりネットの次世代ビジョン仮説に関する理論武装も固まってきたことで、ネット周辺でのベンチャー投資意欲、ベンチャー起業意欲も久しぶりに高まりを見せている。ブログ上での真剣な議論も続き、質の高い内容のエントリーもまた増えてきている。

ここを読んでみて自分に欠けていた視点に気がつかされた。この概念を必要とするのはユーザーでも技術者でもない。Web2.0が本当に必要なのは起業家であり、経営者だったのだ。さらに言えば彼らがベンチャーキャピタル(BCVC)等から資金調達をする際に必要な説得を行うためにWeb2.0という概念が必要となるのだ。
今現在、ユーザーにもっとも受け入れられている、あるいはその可能性を感じさせるサービス群を分類し、分類名を与え、その概念を深めながら理論武装を行うことによってどのようにBCVCを説得するかのスキームが組み立てられようとしている。この世でもっとも生々しい上に切実な「どうやってカネを持ってくるか?」の話なんだから、議論が盛り上がらないわけがない。なるほどこれは単にメタ的な話などではなく、しっかりと実利に根ざした上での話だったわけだ。
しかるに梅田氏は翻って日本の現状を

日本のネット列強の中に一社も、ネット進化の新しい方向性を体現する戦略を取ってやろうという会社がいないのが寂しい。

としている。ふーむ。まあ日本の現状について、BCVCの存在感が薄く、離合集散を繰り返しながらも、その実旧態依然たる銀行って図式だと捉えるとそういうことにならざるを得ないかも。
結局日本ってまったくのゼロからなにかを作り上げることが苦手なんだとしか言えないのだろうか。かつてのJapan as No.1の時代にだって「モノマネ猿」と揶揄されていたわけだし、iTMSという黒船の来襲を受けてようやく動き出した音楽業界を見てみると考え込まざるを得ない。結局歴史が繰り返されようとしてるんじゃなかろうか?つまりある程度そのサービスの成否が明らかになった時点から参入し、ハイレベルな洗練を行うことによってトップの座を取りに行くという、後の先の戦略を日本企業はまた取ることになる(あるいは取らざるを得なくなる)のではないか、ということだ。
けれどもビジネスの流れがとてつもなくスピーディになった*2現代において、そんなことが果たして可能なのかどうか?
その疑問に応えを出し、舵を切ることがBCVC、銀行などの投資家の役割だろう。それによって日本のネット産業の進む方向性も変わってくる。
少なくとも「Web2.0?なんですかソレは」と言ってしまうようでは話にならないんだろうけど……さて、日本の現状はどうなんだろう?
まあ私の耳が遅いだけなのかもしれない。つーか技術者でも起業家でも投資家でもないんだから遅くて当たり前なはずなんだが。

*1:というか、実装段階ではそのサービスがWeb2.0か否かはすでに決定している

*2:3年前に実現されていたWebサービスとそのトップランナー。そしてその後のブラッシュアップは誰が行ったのかを考えてみると面白そうだ

しらたまこの木

「いつかしらたまこの木を見に行くの」
彼女がそう言ったとき、僕たちはそろそろ傾きかけた日の差す部屋の中で二人してうとうとしていた。とりたててなにをするわけでもなく、ほのかな暖かみの中で時間がゆるゆると過ぎ去っていく。外で自転車のベルが軽く鳴った。学校帰りの子供が嬌声とともに走っている。自動車のエンジン音でさえ耳に優しく響いていた。すべての輪郭はまるみを帯びている。
「若葉がすごく綺麗なんだ」彼女はテーブルに身を預けながら僕を見ている。「丘の上でその若葉を透かして青い空を見るの」
「綿菓子みたいな雲がぽっかり浮かんでる」
「そう。そこでね、一日中風に吹かれながらうとうとするんだ__今みたいに。すごく気持ちいいと思わない?」
確かにすごく気持ちがよさそうだ。そんな絵に描いたような場所がどこにあるのかもわからないし、白状してしまうとしらたまこの木がどんなものなのかだって僕は知らない。けれども彼女の言うように過ごせるのなら、それは本当に気持ちがいい一日になることだけはどうしようもないくらいにわかった。
「しあわせって、そういうことなんじゃないかな」
眠りに落ちようとしているのか、彼女の目はどこも見ていないようだった。それでも目を開けていようとすると、すべてのものは輪郭を失ってひとところに溶けていくようにぼやけていく。今、彼女にとっての世界はそんなふうになっているんだろう。そして僕はそんな混沌とした風景が嫌いじゃなかった。彼女は__どうだろうか?
しらたまこの木の下で暖かな風に吹かれる一日はとても気持ちのいい一日で、それは確かに幸せのひとつの形なのかもしれない。幸せはいろんなところにいろんな形で転がっていて、僕たちはゆっくりとそれらを拾い集めていく。彼女がひとつでも多く、少しでも深く、そんな幸せを集めていければいい。

彼女が目を覚ましたら、熱々のコロッケでも買いに行こう。